歩道狂の詩
しのげ!退屈くん
文:安田謙一画:辻井タカヒロ
高田文夫がラジオで何度も話している「俺はピーマンと同い年」というネタが好きだ。曰く、生年の1948年はピーマンが日本に入ってきた年だという。
それに因めば、私は何の野菜と同じ年生まれなんだろう。ネットで検索してみたが、その答えは得られなかった。
同じ年、というのではないし、野菜でもないけれど、グレープフルーツが日本に入ってきたときを覚えている。調べてみると71年。9歳のとき。記憶どおりだ。
同じように、(自分の前に)歩道橋が出来たときもはっきり覚えている。
神戸市葺合区(現在の中央区)若菜通の市営住宅に住んでいたころ、目の前の山手幹線の片側3車線の車道にそれが建てられた。小学校にあがる前、車道を横切ろうとして転倒し、額を大きく切る怪我をしたので、その場所に歩道橋が出来る前の景色もよく覚えている。
歩道橋(「横断歩道橋」)のウィキペディアを見ると「……大部分は交通事故が急増し始めた昭和40年代に建設されたもの……」とあり、これもまたグレープフルーツと同じく記憶のとおりである。歩道橋は当然のように小学校までの通学路に指定されて、毎日、そこを通った。
歩道橋が出来た最大の理由は交通事故の増加にある。と、これもウィキに出てきた。昭和30年代、交通戦争なんて言葉が流行した。そういえば、受験戦争なんて言葉も流行った。就職戦争もあった。数年前にSNSでライブなどに「参戦する」という表現が問題視されていたが、考えてみると、なんでも戦争と呼ぶ時代があった。

交通戦争という言葉で思い出すのは、成瀬己喜男監督の映画『ひき逃げ』(66年)。ラストシーン、子供の手をひき、狂ったように横断旗を振る高峰秀子の凄まじい演技は、まさに戦場におけるものだ。
そんな時代に発明され、全国に量産された歩道橋だが、少子化やバリアフリーに反するという観念から、徐々に利用者が減っている。ここ十年の間に撤去されていくのも数回目撃した。
残されたものは妙にくたびれている。土地の名前が書かれたペンキは剥げ、手すりは錆び、階段はひび割れている。最初に書いたように(ほぼ)同い年の存在として、そのくたびれ方が、自分の衰えとジャストにリンクしているように思えてくる。
そうなると、なんとなく憐みを感じるようになってきた。わざわざ通ってみたりもする。立ち止まり、行きかう車を上から眺めていると、同じことをしていた子供の頃の記憶がよみがえる。

歩道橋が出てくる映画といえば、なんといっても北野武の監督デビュー作「その男、凶暴につき」(89年)。歩道橋でたけしが白竜とすれ違い、だいぶ行ったところでハッとして、もと来た道を戻るところ。あれほど贅沢な歩道橋の扱いはほかにないだろう。あのシーンだけで、歩道橋は文化的な役割を全うしたのではないだろうか。
乃木坂46に「歩道橋」という曲があることをはじめて知った。つい最近(2024年)の曲だった。さすがに秋元康で原稿を〆るのは不本意だが、まあ、たけしと高田文夫が出てきたことで良しとしよう。
(手を叩いて)バウバウ。

