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ファンタジー

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和田夏十の言葉

「お嫁に行って、子どもを産んで、おばあさんになっていじわるになって死んでしまうなんて、ちっともおもしろくないじゃないの? そんなひとならどこにでもいるわ」

映画『恋人』より

日曜夜7時半からのNHK『ダーウィンが来た!』を何よりの楽しみにしている。毎週、たとえ日中出かけていたとしても必ずこの時間までに夕食の支度を終え、テレビの前につく。なんならビールを2、3口飲んでからほろ酔いで迎えられるとなお良い。

謎の光る鳥の真相、ヌー親子100万頭の大移動、屋久島にある伝説の超巨大杉… 初めて知る生き物や光景に釘付けになり、「へぇ〜!」とか「すごい!」とかただただ歓声を上げる30分。時おり視聴者からの投稿に応える回もあって、生き物好きの視聴者親子、スタッフ、研究者の心が通じたり通じなかったりする様子を眺められるところも大好きだ。

その一方で、ドラマを1クール通して観られた試しがない。どんなに話題の作品でも、かろうじて初回を観て「これは!」と思ったとしても、最終回の結末を知っているものはほとんどないかもしれない。

「ファンタジーというのはどうしようもなく真実を写している」という話を聞いたことがある。なぜならそのファンタジーが生まれざるを得なかった環境があった、というのは覆ることのない事実だからだ。どんな妄想も、リアルという参照元がなければ生まれ出てこない。

わたしがドラマと距離を置いてしまう理由は、そこにあるような気がする。ファンタジーに浸ろうとすればするほど、今度はその背景にある真実が気になってしまう。設定も台詞も演技も、架空の話であればあるほど現実が透けて見えてきて、最初は良くてもだんだんそれが煩わしくなってしまう。

1951年の映画『恋人』で、結婚式を翌日に控えた主人公・京子は、幼馴染の誠一を誘って独身最後の気ままなランデブーに銀座へと繰り出す。そして一緒に映画を観た後、こう切り出す。

「このごろの映画ってどうしてほんとみたいな話ばっかり作るのかしら?雲に乗って飛んだり、お馬がしゃべるような映画が観たいわ。お嫁に行って、子どもを産んで、おばあさんになっていじわるになって死んでしまうなんて、ちっともおもしろくないじゃないの? そんなひとならどこにでもいるわ」

この台詞には、明日には嫁いでしまう京子の心境がこれ以上ないほど詰まっている。今までの人生を手放し、どこにでもいる「奥様」に収まっていくことへの葛藤、反発、そして恐怖。それに対し、密かに京子に恋心を寄せる誠一は「じゃあ君のこと、映画にしたらいいじゃないか」と吹っかけてみせる。「どうして?」「子どものくせに子どもらしくなくてさ、良家の令嬢のくせに、あばずれでさ」

「和田夏十」というペンネームは元々、市川崑とその妻・市川由美子共同のものだった。1948年に結婚した後、夫の作品の脚本を頼まれ手伝う形で由美子の脚本家人生が始まったという。「和田夏十」が由美子単独のペンネームとなったのは、この『恋人』からだ。そのため脚本のクレジットには「和田夏十」と「市川崑」の名前が併記されている。それ以前の作品同様、夫との共同脚本ということになるが、わたしにはこの京子と誠一のやりとりが和田夏十個人のペンによるものに思えて仕方がない。

わたしが結婚したちょうど10年前、たったひとつのファンタジーが今よりずっと強い力を持っていた。ブライダルフェアにマリッジリング、新婚旅行人気ランキング、おすすめウェディングフォトプラン…取り寄せたパンフレットには整った顔立ちの男女が笑顔で写っていて、見れば見るほどそれが遠い世界のことのように思えた。そして何より、このファンタジーに取り込まれたが最後、自分が自分でなくなるような気がして恐ろしかった。わたしはここにしかいないはずなのに、いつのまにかどこにでもいる誰かに変えられてしまうようでおもしろくなかった。結局、結婚式は挙げず今に至っている。

ひとりでZINEを作ってもう5年になる。30歳で始めるまで、まさかわたしが家庭や職場という場以外に打ち込むものが出来るなど思いもよらなかった。新しく何か作るたび、今まで知らなかった自分に出会える気がしてZINE作りはちっとも飽きない。それに、他の人が作ったものを読むときも同じように思う。こんなことを考えている人がいるのかと驚いたり、知っていると思っていた人の知らない一面を発見できたりする。

「どこにでもいるひと」なんて、本当はいないと思う。いるとしたら、誰かに都合の良いファンタジーの中だけなんじゃないだろうか。

次は何のZINEを作ろうかと机に向かうとき、頭の中でいつも誠一が焚き付けてくる。「じゃあ君のこと、テーマにしたらいいじゃないか」。そしてどうしても、そこに和田夏十の姿を感じずにいられない。