誠光社

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和田夏十の言葉

自律

最終回

和田夏十の言葉

どこにもふるさとはない 泣くやつはだれだ このうえ何がほしい

『だれかが風の中で』より

10代や20代の頃、自分がやけに物知りだということが無性に後ろめたかった。これは「私は頭がいい」ということを言いたいのではない。ただ、若いくせに変なことはやたらと知っていた。

こういうことは大抵、自分ひとりでは気づかない。人と話をしていて、適当に相槌を打ったり、生返事をしたりしたときにうっかり見つかってしまう。

「博士」「生き字引」などと呼ばれ、学校の同級生たちにからかわれる分にはまだよかった。それよりも、目上の人、特に男性からの反応がこたえた。

若い女ならこんなことは知らないに違いない。そう高を括っていたことを、私が簡単に口に出したからだろう。急にうろたえられたり、妙に張り合うようなことを言われたりすることがあった。私はその度に恐縮し、いちいち気に病んだ。

私は何かにつけて、知っている者が上で、知らない者が下になるという道理がどうしても理解できないでいた。知らないなら今から知ればいいし、単に知識として知っているからといって、その言葉の向こうに広がるものまで「知っている」とは限らないではないかと思っていた。

年をとった今ならわかる。知識の広さは「自由」を叶える手札の多さでもある。自由を競って勝つには、手札の数が肝心だ。

しかし若かった私は、自由を自分で掴み取ることにほとんど興味がなかった。その代わり、自分のことを他の誰かにどうにかしてもらうことばかり考えていた。

和田夏十は映画の脚本の仕事以外に、一度だけ作詞を手掛けている。

タイトルは『だれかが風の中で』。小室等が曲を付け、これを上條恒彦が歌った。ある年代以上の人には、テレビ時代劇『木枯し紋次郎』の主題歌といえば懐かしく思い出されるかもしれない。何しろ最高視聴率が38パーセントを記録した大人気番組だった。このドラマの監修と演出を、和田夏十の夫・市川崑が務めた。

「時代劇を作るつもりはない。西部劇を作るつもりなんだ」。市川崑は、和田夏十の詞を小室等に託す際、彼にこう言ったという。これを受け、小室等はバート・バカラックの『雨にぬれても』をヒントにして曲を仕立てた。(出典:WEBサライ 2009年9月24日)

どこかで だれかが
きっと待っていてくれる
くもは焼け 道は乾き
陽はいつまでも沈まない
こころはむかし死んだ
ほほえみには会ったこともない
きのうなんか知らない
きょうは旅をひとり
けれどもどこかで
おまえは待っていてくれる
きっとおまえは
風の中でまっている

この曲で、和田夏十は孤独な旅に生きる渡世人・木枯し紋次郎の荒涼とした境地を描き、1972年にリリースされたレコードの売上は、同年だけで約23万枚を記録した。

まさしく時代を映すヒット曲となった一方で、この曲には、和田夏十自身の信念も色濃く投影されているように思う。

『和田夏十の本』では、「甘え」についての彼女の考えが繰り返し述べられている。

「甘えは即ち幼児性です。」
「消滅することのない幼児性とのたたかいが人間の一生であると云っても過言ではないでしょう。
消滅することのない幼児性を、どの辺で押え込み、どの辺で小出しにみっともよく発散させるかで、各人の個性もモラルもテーマも創り上げられていくわけであります。」
『和田夏十の本』「『「甘え」の構造』について」より

自らの甘えを認め、自分を律することは、彼女にとって人生の大きなテーマだった。

どこにもふるさとはない
泣くやつはだれだ
このうえ何がほしい

『だれかが風の中で』後半のこの苛烈な詞は、ひょっとして彼女が何度も重ねてきた自分への問いかけでもあったのではないか。からっ風が頬を切るような厳しさ。しかしそこに込められた確かな希望は、そのまま彼女の作風でもあった。詞はこう続く。

けれどもどこかで
おまえは待っていてくれる
きっとおまえは
風の中でまっている

ときに、「自由」について和田夏十は次のように語っている。

「もともと人間なんて不自由のかたまりで、だから自由というのは心の中とか、そういうことなのであって、キセル乗車したとか、だれかと寝られたから自由だとか、そーんなことと自由とは何の関係もないんだ、っていうんですよ。」

(『親と子』朝日新聞学芸部・編 1977年)

この冬、私は宵っ張りの朝寝坊を辞め、朝型の生活に変えた。

仕事を終え、帰宅したらその日やることをさっさと済ませて床に就き、朝は日が昇るまでに起きる。その代わり、朝はゆっくり家事をしたり、本を読んだり書き物をする。走りに出かけるときもある。

これは、私が自分で決めて自分で始めたことだ。暇さえあれば酒を飲み、週末には夜が明けるまで起きていたことを思うと激変だと思う。家族も驚いている。

冬の早起きはさぞかし辛いだろうと思いきや、案外そうでもなかった。むしろ朝の時間に何をして過ごそうか、毎日楽しみに目が覚める。休みの日など、昼前に起きて一日中だらだらしていた自分を一皮剝くと、こんなにもピカピカの溌剌とした自分が居たのかと我ながら驚く。

何かすがり付けるものを必死に探していた頃には、こんな楽しみはいくら手を伸ばしても届かなかった。私がどれほど拗ねて不貞腐れているときにも、未来のこんな自分が、ずーっと見捨てず待っていてくれたんだなあと頼もしく思う。

天涯孤独の博打打ちの境遇と、自分の早寝早起きの話を重ねるのは申し訳ない気もするが、私は今、確かに自由の真っ只中にいると思う。