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粒あん

粒あん

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和田夏十の言葉

あなたは影のない人だって、私は確かに言ったことがあるけど、現代の社会機構の中にまき込まれると、誰でもそうなるのよ

映画『黒い十人の女』より

京都の某あんこ屋さんの話によると、粒あんとこしあん、前者の方が注文量が多いそうだ。別に競うことでもないが、こしあん派より粒あん派の方が優勢ということになるだろうか。

そう言うわたしも粒あんの方が好きだ。京都みやげにすると必ず喜ばれる「阿闍梨餅」は、粒あんのおいしさが存分に発揮されたお菓子だと思う。袋から出して、手でふたつにちぎってみると、しっとりして引きのある生地の間から粒あんの小豆の皮がツヤっと輝いて、それを見ただけで上機嫌になってしまう。

“walking dictionary”というのは「歩く辞書」、つまり「生き字引」という意味の英語の慣用句になる。しかしつい先日、“walking content”、直訳して「歩くコンテンツ」と呼びたくなるような人に出会った。

その人が口を開くと、出てくる出てくる。準備中の企画が、まるで口から万国旗が滑り出てくる芸のように次々繰り出されるので驚いた。

そしてそのどれもが、まだどこにもなくて、かつ、それを密かに待っている人はこの世の中に少なからず居るはずだと思える企画ばかりだった。そんなことを次から次に思いついて披露できるのは、きっとその人がとても有能だからなのだろう。

しかし、その「歩くコンテンツ」から何を聞いても、どうも頭に入ってこない。企画の良質さやその人の能力の高さはとてもよくわかるのに、どうしてもその先に行けない。なぜか全く興味が持てない。

たぶん、その人の信念や情熱が、そこから全く伝わってこなかったからだと思う。

結局、わたしの方は下手くそな愛想笑いを浮かべながら「いいですねぇ」を連発する、相づち発声器のようになってしまった。

市川崑監督と聞いて、まず『黒い十人の女』(1961年)を思い浮かべる人は少なくない。プレイボーイのテレビプロデューサー・風松吉に、妻含む10人の女が仕掛ける復讐劇。しかしわたしには、女たちの所業よりも風の抱える虚無感の方が恐ろしく、悲しく思えた。

その後二度に渡りリメイクされたこの作品は、元々、和田夏十による完全オリジナル脚本だった。

「君たちは人間じゃない、悪魔だ」。女たちの手により、自らが社会的に抹殺されたことを知った風はひどく取り乱す。そんな風に対し、彼の身柄を引き受けることになった愛人・市子がこう言葉を返す。

「いいえ、そうじゃないわ。あなたは影のない人だって、私は確かに言ったことがあるけど、現代の社会機構の中にまき込まれると、誰でもそうなるのよ。あっちへこっちへ忙しく飛び歩いて、事務的なことの処理は大変うまくなるけど、心と心をふれ合わせることの出来ない生き物になってしまうのよ」

そう、誰でもそうなるのだ。

右も左もアカウントという看板を掲げて、必死に、あるいは無意識に点の取り合いをしている2021年の今、このセリフはやけに胸に迫ってくるものがある。

SNSのタイムラインにはハイライトシーンばかりが並び、影の部分が写し出されることはない。調子の良い声だけやたらよく通って、沈黙はあってもないものにされる。はからずもそういう仕組みが癖になって、わたしなどはもうダラダラと10年以上の時を費やしてしまっている。

便利なものにはそれなりの危険性がつきものだ。タイムラインを追いながら、“心と心をふれ合わせることの出来ない生き物になってしまう”恐れと、“自分だけは大丈夫”という自負との間を常にゆらゆら揺れている。

わたしが話を聞いたあんこ屋さんによると、粒あんはこしあんと違って皮の部分がわざと残してある分、甘さにムラができるらしい。甘いところとそうでもないところ、その対比におもしろみがあって、それが粒あんならではの味わいやおいしさになるのだと言っていた。

例の「歩くコンテンツ」その人にも、甘いところとそうでもないところはあるのだろうか。

人は、ハイライトや甘いところばかりでは生きていけない。影の部分や甘くない部分があってはじめてひとつの人格になるのではないか。そして、むしろ後者の方が生きる意味になったことが、わたしにはこれまでたくさんあった。

うっかり忘れ物をして、その場で誰かに借りて助けられたことや、楽しいあまりにしゃべり過ぎて、あとから後悔してしまうようなことが、あの人にもあるといいなと思う。わたしには見せなかっただけで、あの人にもそういう、足りないところやはみ出たところ、情けないところがあるといいなと思う。それも含めて自分なのだと納得できているといいなと思う。

そんな気持ちを込めて、最後はただ祈るように「がんばってください」と言って別れた。