誠光社

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なまえのこと

名前における前後左右

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なまえのこと

漫画ナマエミョウジ文フィクショナガシン

2001年に省庁再編があり、ほう、官僚組織というのは揺れ動くものなのだな、と当時の私は感心したのであるが、名前を変えただけで特に変わってないというのは、ある意味で、やや身につまされる気がするのである。ある種の演歌歌手がそうであるように、人は、改名せずとも劇的に自分を変えていくことはできるのであり、そのような心がけは大事であると思う。

ところで、中央省庁再編に伴って、国語審議会も廃止されたが、その最終回たる第22期国語審議会の答申は「国際社会に対する日本語の在り方」というタイトルであり、その最終章として「姓名のローマ字表記の問題」が取り上げられている。明治以降、欧米に合わせて、名→姓の順番で表記されてきたのを、これからは漢字の場合と同様に、姓→名にすることを提案しているのである。

例えば「誠光社の店主の名前はなんですか。英語で教えてください」と訊ねられたら、Atsushi Horibeと答えるのがこれまでだった。①堀部②篤史というように、日本語における姓→名の順番ではなく、左右を入れ替えて、欧米の多くと足並みをそろえ、名→姓の並びで②Atsushi ①Horibeとしていたのであった。それが、このたび、①Horibe ②Atsushiと漢字の場合の①堀部②篤史と同じ順番にするよう求められているのである。

どこが求めているのかというと文化庁であり、政治家、そして官僚である。もちろん大学関係者や新聞関係者など主に民間人によって国語審議会は構成されているのであるが、ともあれ狭義の政治世界である(ちなみにこの22期にはなぜか中島みゆきも名を連ねている)。私が、このローマ字表記を姓→名にする提案を知った時の感想は、ほほう、暇人が多いな、というものであるが、国語審議会にしてみれば、Horibe Atsushiにするというその動機には深い意味があるようであった。

その動機とは、中国、韓国、ベトナムなども①姓②名という順番であり、今やグローバル世界であり、固有性が大事であり、多様であるというのを、欧米の連中に見せつけてやろうじゃないか、韓国や中国ではすでにそうしているのだし、というものだろうと思われる。欧米の慣習にとらわれることなく、自分らのありのままの順番で名前を呼んでみようじゃないか、と言えばそうなのであろうが、それよりも「韓国や中国がすでにそうである」「英語圏でも姓→名でやっている」というのが、政治家、官僚達を興奮させているのかもしれない。

ともあれ、第22期国語審議会は答申を「今後,官公庁や報道機関等において,日本人の姓名をローマ字で表記する場合,ならびに学校教育における英語等の指導においても,以上の趣旨が生かされることを希望する。」と締めくくった。句点「。」とカンマ「,」の併用が、やや気になると言わねばならないが、それはともかく再編前の置き土産としてこのように「希望」したわけであるが、現実には、それはなかなか届かないままであった。

業を煮やしてか、第4次安倍改造内閣(2019年)の時に、2020年から国の公文書に対してもこのローマ字における姓→名を踏襲することが申し合わされている。さらに、当時の河野太郎外相や柴山昌彦文科相が、「Abe Shinzo 」と表記するよう、海外の報道機関に要請すると記者会見で述べた。

また国語審議会の後進組織である文化審議会(妙な名前に改名したものであるが)では2022年1月、「公用文作成の考え方」の中で、「日本人の姓名をローマ字で示すときは、差し支えのない限り「姓-名」の順に表記する」と明記した。これらの流れの中で、中学英語には姓→名が採用されている。

とはいえ、それでも、なかなか浸透しなかったようである。一昨年のことであるが、海外報道各紙、例えばロイター(Reuters)は、Assassination of Japan’s former Prime Minister Shinzo Abeと書き、BBCはShinzo Abe:Japan exleader assassinated while giving speech と書き、CNNはShinzo Abe,former Japanese prime minister,assassinated during campaign speechと見出しを打ったのである。

令和6年、2024年11月19日、つまりつい先日であるが、NHK WORLD-JAPAN NEWSでは、Renowned poet Tanikawa Shuntaro dies at 92という見出しで日本の詩人の死去を報じており、河野や柴山の「要請」また国語審議会/文化審議会の「希望」を実現している。本文では、Tanikawaを主語にして、こっちが苗字だとわかるようになっている。しかしガーディアン(The Guardian)の見出しは、Shuntaro Tanikawa,giant of Japanese poetry,dies aged 92となっていて、こちらは彼らの「希望」をかなえる気はないようだ。

ただ、記事はこのイギリスの新聞の方が詳しい。NHK  WORLD-JAPAN NEWSはは彼の処女作を取り上げ、また鉄腕アトムの作詞のこと、スヌーピーの翻訳者であること、海外でも多く翻訳されていることなどを伝える程度なのに対し、ガーディアンは、NHKよりも早い18日の時点で、そのことにも当然触れながら、詩を音として、音楽のように奏でる『ことばあそびうた』や、また一昨年のAP通信による東京の自宅でのインタビューの抜粋、スヌーピーだけじゃなくマザーグース、モーリス・センダック、レオ・レオニなどの翻訳の仕事を取り上げ、彼の生い立ちとして哲学者の谷川徹三の息子であること、大岡信や寺山修司らと交流したこと、「若い頃、詩は天から降ってきた。年を重ねた今は詩が、地から湧き上がってくるのを感じる」という彼の言葉を紹介した。日本の現代詩の主流たる「戦後詩」と距離があったことを指摘し、そのことが独自のアプローチを可能にしたという見解を述べている。子供、家族についても、息子の賢作と娘のシノ、孫が数人残された、と書いていた。

谷川俊太郎はノーベル賞を得ても全くおかしくない活動をしたが、残念ながら亡くなってしまったな、というのがその死の報に接しての私の気持ちだった。以前、あるイベントでお目にかかることがあったが、その頃すでに80代であったけれども、顔も体も骨と肉が密度高く詰まっている感じで、全くヨボヨボしておらず「強さ」を感じた。目はそれに比べて非常に小さく優しく黒く、文字のミステリアスな入り口に相応しいと思ったものである。そのイベントは「14の夕べ」という14日間だけの、東京国立近代美術館の改装のタイミングを利用して開催されたもので、古川日出男と共に私は参加したのだが、この時谷川俊太郎が朗読したのが「なんでもおまんこ」だった。

この時の彼の朗読の意義については岡﨑乾二郎の『而今而後 批評のあとさき 岡﨑乾二郎批評集成 vol.2』(亜紀書房/2024)の「日々の諍い、あるいは法外な経験」に詳しく書いてある。ここで付け加えておきたいのは、以下の新聞記事である。日本の新聞では多くの紙面を割いて彼を追悼したが、朝日新聞11月20日(水)朝刊には、昨年、一昨年にインタビューをした際のやりとりがまとめられている。動画で自作朗読をしてほしいという記者の要望に対して、「一つだけNGが出た」と記事は書く。何かと言うと「なんでもおまんこ」だけはダメ、というのである。記者は今の時代を気にしてかと思ったが、そうではない。どういうことかといえば「この年になると元気に読めないから」。

新聞記者というのは、一般に、「こんなこと言ってない」というようなコメントのまとめ方をする、セリフのまとめ方がものすごく下手だったりするというのをよく聞くが、また私も「俺こんなこと言ってない」という経験があるけれども、これは、谷川さんだな、彼が言った言葉だな、声が聞こえるな、と、あの時の「なんでもおまんこ」の朗読の、館内に響く、自信に満ちた声を思い出しながら、やはり記者には「うまい」「下手」があり、記事の質の高い低いがあるという当たり前のことを思ったのである。なぜか元気になる追悼記事、バックナンバーをぜひどうぞ。

ところで、今年のノーベル文学賞は、近年邦訳も多数出版されており日本でも著名なハン・ガンだったが、ノーベル賞の公式ホームページを見てみるとHan Kangというように姓→名の順番で、母国語の順番と同じである。日本の「希望」が、ノーベル賞においては、韓国の小説家によって実現したわけである。いや、すでに2012年受賞の中国の小説家莫言も、姓→名だし(ペンネームだが)、そもそも彼女ら、彼らの本は邦訳でも洋書においても、ハン・ガンであり莫言であり、Han KangでありMo Yanである。

ノーベル賞の発表のひと月前、高松宮世界文化賞の発表があった。建築部門が坂茂で、演劇・映像部門がアン・リー、絵画部門がソフィ・カル、彫刻部門がドリス・サルセド、音楽部門がマリア・ジョアン・ピレシュ、それぞれ受賞したが、日本の公的な機関が主催する世界的な賞であり、当然文化庁の「希望」、河野や柴山の「要請」をかなえる絶好のチャンスが訪れたように思われた。しかしながら、公式ホームページを見ると坂茂のローマ字表記は大きく、Shigeru Banとあり、その下に小さく坂茂とあるのであった。

私は、もしや、と、悪い予感を抱きながらスマホに「京都賞」と打ち込んだのであるが、今年は理論物理学者ジョン・ペンドリーと地質学者ポール・F・ホフマン、そして、かつてフランクフルト・バレエ団を率いていた振付家ウィリアム・フォーサイスの受賞であった。3人ともAtsushi Horibe的な名→姓の世界の住人であり、名前の順番に変わりがない。では、去年は、と思って受賞者一覧を見てみると、2023年の受賞者の中に人工授精など生殖補助医療技術の発展に大きく貢献した生殖生物学者柳町隆造がいた。人柄の伝わりそうな笑顔でいい写真の下に、Ryuzo Yanagimachiと、世界文化賞と同じく、平成以前の順番でローマ字表記されているのであった。

東西の国際的に名高い賞が政治的に反抗しているのだろうか、と思わなくもないが、おそらく、単に「希望」や「要請」にインパクトがないのだろう。今年、盛山文科相(当時)が「これからの時代におけるローマ字表示の在り方について」意見をまとめるよう、要請したというし、来年以降、NHK的に「是正」されてしまうかもしれない。私としては、このまま「希望」や「要請」が永遠に届き切らないのが望ましい。世界文化賞と京都賞にはぜひ頑張ってもらいたいところである。韓国がそうだからとか中国がそうしてるとか、だから日本もこうでなくては、とか、欧米のメディアが全然聞いてくれない、向こうが悪いんだ、いや日本の説明不足なんだとか、中途半端に思うこと自体に恥ずかしさを感じる。アジアの中で孤立しているのでむしろいいから、明治の、文明開化のスピリットを保存する、そんな気概を持って、欧米風にAtsushi Horibeを維持してほしいと思うのである。

ところで、ノーベル賞の公式ホームページを読むと、ハン・ガンの受賞理由に「歴史的トラウマや見えないルールに立ち向かい、生きている者、死んだ者とのつながりについて独自の認識のもと、詩的かつ実験的なスタイルで現代の文学を革新した」とあるが、それは、文学だけでなく、現代のアート、また近年の映画にも当てはまる同時代的な傾向でもあるように思われる。パブリックな世界を、作家自身のプライベートな視点や経験に関連づける態度である。歴史や社会を、作家自身から見た遠近法の中で捉え、それを世界の現実と一致させようというわけだ。その多くはシリアスで、ナイーブな雰囲気をまとう。緻密で、細部が繊細に構築されている。地声のような身近さを感じさせながら、不意にどこか非日常的な「声」が紛れ込む。

本来、詩が担ってきたことだろうが、詩への深い憧憬と信頼が、今もなおグローバルな世界を覆っているのだろうか。それとも、西洋的な古風な基準が、強固なまま揺るがないということだろうか。

ノーベル賞を受賞することで世界的に注目される、それは非常にいいことである。例えば今年で言えばNihon Hidankyoがそうであるが、文学の場合は、初めて邦訳が刊行されるということがあり、昨年のノルウェーのヨン・フォッセがそうだった(ハン・ガンはすでに人気作家で多数の邦訳があったが)。彼は詩人でもあり、長年演劇の作家として戯曲を書いてきた。

戯曲というのは、ほぼセリフだけで成り立っているものであり、伝統的にそのセリフの頭には、登場人物の名前が来る。下には来ない。

小シュアード 何者だ? 名のれ。
マクベス 聴けば腰を抜かすぞ。
小シュアード 誰が。燃える地獄の悪魔より恐ろしい名を言っても平気だぞ。
マクベス おれの名はマクベスだ。

         シェイクスピア『マクベス』(福田恆存訳/新潮文庫/1969)

という具合である。当たり前だが、「小シュアード」とか「マクベス」というのは舞台上では言わない。太ゴシックになっているのはもちろん役者が強く発音するためではない。舞台上では、声としてセリフを観客は聞くわけだから、この「小シュアード」とか「マクベス」という戯曲の頭の言葉は観客の目には見えないのである。

だが読者の視界には常に入っていて、「マクベス おれの名はマクベスだ」というのは、戯曲のルールを知らないで読むとしたら、二度言っているように思えるのであり、しかも、最初は強く言っているように思え、その次にはやや小声で言っているようにすら思えるのであり、なんというか、一気に喜劇の様相を帯びてくるほどである。つまり、戯曲とは、ページに名前ばかりがある不思議なジャンルであり、ほとんど名前を読んでいると言っても過言でないのである。

そのヨン・フォッセには文字どおり「名前」と題された戯曲がある。やはり戯曲ルールに則って頭に登場人物を示す名前が来るのだが、名前がないので、「若い女」とか「若い男」とかになっている。

もっとも、登場人物に名前がない戯曲は珍しくはない。面白いのは、作品「名前」の中で、一人だけ、あえて名前が出されており、それが意味を帯びるのである。「若い男」と「若い女」は恋人どうしで、「ビャーネ」というのは彼女の幼馴染の男である。身ごもっている「若い女」は、彼女の実家に来ている。

若い女 うん
     (彼は彼女のお腹を少しさする)
    からかわないで
ビャーネ (若い男のほうを見て)
    で きみは
若い男 うん
ビャーネ きみもまだ若いね
若い女 わたしと同い年よ 大体
     (若い男のほうを見る)
    ビャーネとわたしはよく一緒だった
     (笑う)
 それじゃあね
     (間。若い男に向かって)
  部屋を見せてあげようか
  ふたりが泊まる
     (若い男がうなずく)
    (すばやく)
   わたしが見せてあげる

           ヨン・フォッセ『ヨン・フォッセⅠ 名前/スザンナ/ぼくは風』アンネ・ランデ・ペータス、長島確訳/ハヤカワ演劇文庫/2024)

改行が多く、句読点もない。それが詩を思わせるのだが、よく読むように、とか、速読しないように、と読者を「演出」しているようでもある。

一人だけなぜか固有名で示されていることで、他の登場人物との違いが明らかになっており、生きている場所が違う、もしくは、死者のように思えてくるのだが、その説明はない。説明はないし、「こいつ幽霊だぜ」と誰かが言うわけでもない。実際に会話をするので生きているのかもしれないが、明らかに一人だけ名前がセリフの頭についており、読者はそれを無視できない。つまり、戯曲においてあらかじめ強く視覚的に「この男に注意せよ」と示唆されているというわけだ。

ところで、戯曲が頭に名前を置くジャンルなら、それとはまるで違う名前の方向性を持ったジャンルがあり、それが短歌や俳句である。短歌や俳句は、その作品の下に、名前が来る。












と、このように作品の下に作家の名前が来るのである。引用される時にこうなるようだ。他とごっちゃにならないように、作者名と作品をセットにする必要があるからである。フルネームの場合も多いが、下の名前のみを記すことも少なくないようである。確かに、竹内十丈ではなく十丈とする方が断然雰囲気が出る気がする。十丈は、江戸中期の俳人であるが、この作のほか数作しか私は知らないけれども、彼の句集があれば読んでみたいものである。まあ、すでにこうして名前と作品が近くにあると本の背表紙みたいでもあるが。

背表紙で思い出したが、そういえば、文庫の背表紙の、タイトルの上に名前が来るのは講談社文庫が最初で、それを発明したのがまだ30代後半の菊地信義だった。彼が担当した1982年から現在のフォーマットになっている。彼自身いくつかのインタビューで述べているし、私も直接聞いたことがある。

菊地信義が講談社文庫のフォーマット設計をやるにあたって、実際に本屋で観察、調査をして、人がまず文庫を手にする時に必要な情報は著者名だということを突き止めた。当時は、背表紙といえば、基本的にタイトルがあり、その下に著者名が来るのが当然のようにあった。今でも単行本はそうなっている。だが、文庫というのはアーカイブなのだから棚差しが基本であり、棚で検索しやすいように背表紙の頭に名前が来るべきだ、として当時の慣例を破って「上に名前、下にタイトル」を講談社文庫の全てに導入した。今では普通のことに思うが、「誰かが考えたからそれがその位置にある」というのが、デザインの面白いところである。

そうそう、菊地信義は文化庁よりも早く、すでに80年代から装幀の中で、著者名にローマ字を添える時、例えば、Shimada Masahikoというように、これまた当時の慣例を破ってデザインしていた。私はそれを見た時に斬新なものを感じた。彼はこの表記を最後まで貫いたが、振り返ると、誰に「要請」されるでも「希望」されることもなく、勝手に思いつき、彼だけが始めたこの姓→名の順番での著者名のローマ字表記は、菊地信義印のようにもはや私には思えてくるのである。