
画家の名前について
なまえのこと
漫画ナマエミョウジ文フィクショナガシン
今年の上半期で世間を騒がせた「新人」画家は誰かと問われたらウォルフガング・ベルトラッキと答えるしかなさそうだ。もっとも彼自身の活動歴はすでに長い。夫妻での役割分担も含め(夫が描き、妻が売る)、以前から日本でも紹介されている。だが、彼の名前が、ネットやテレビや新聞などでこんなにも頻繁に流れたのは、国内では今年が最初であろう。
高知県立美術館および徳島県立近代美術館が所蔵する2点の絵画に対し、贋作の疑いが浮上し、報じられたのが今年の2月のことである。間を置かず、高知県立美術館が贋作であることを確認し、追って徳島県立近代美術館でもニセモノであることが鑑定の結果分かった。2点の絵はそれぞれ別の作家の20世紀初頭の作品であるが、双方の贋作を手掛けたのが、1人のドイツの「天才贋作師」ベルトラッキというわけであった。
今回の鑑定の前に、そもそも彼自身が「自分の作品である」と認めており、前述の2月の報道の時から彼の名前は新聞紙上を賑わしていた。紹介する時は決まって「天才贋作師」と付されていた。新人どころか世界ではすでに贋作制作のプロフェッショナルだったわけである。もっとも、すでに服役済みで賠償金も支払い終えており、贋作師としても引退しているそうだ。今では自分の「オリジナル」を制作している一画家として活動中とのことである。
「天才」と称されるのは、様々な画家の、300点ものニセ作品を緻密な制作技法によって制作していたからだった。贋作といえば工房で製作される印象が強い。継続的に利益を上げるには大量に「生産」される必要もあるにちがいない。しかしベルトラッキの場合は1人でカンヴァスに向かい、職人よろしく、その全てを成し遂げるというのである。時代の痕跡も含め、本物らしく見せるためにはどのようにすればいいか、絵の具の成分の選定にまで気を配り、繊細で大胆な活動を繰り広げるという意味では、まさに「1人の画家」の制作と同じなのである。
NHK WEB徳島放送局「“有名贋作師”ベルトラッキ氏と語る人物へインタビュー 徳島高知で偽物の疑い」、CNNのサイト「ドイツの天才贋作師、美術界をだまして億万長者に」、朝日新聞GLOBE+「日本の美術館も被害か 300点のニセモノつくった「天才贋作師」の男が問う名画の価値」などの取材記事が参考になるが、それらを読むと、彼自身はなかなかユニークな制作の姿勢を持っていることがわかる。贋作といえば、実在の画家の実在の作品に極めてよく似ている作品を制作するというイメージがある。例えば、ルノワールがいかにも描きそうな少女の肖像のニセモノを描く、という具合である。しかしベルトラッキの場合は、そのようなアプローチはしないという。
実在の画家がターゲットであるのは同じなのだが(贋作なのだから実在の対象が必要なのは当たり前だが)、彼の場合その画家の知られていない作品を贋作として描くのである。どの画家にも制作が滞る一定の期間があり、その「空白期」をターゲットにする。ルノアールの少女像であれば、「似てない」とか「彼らしくない」と怪しまれた終わりなのだが、「空白期」の作品ということであればその画家の従来知られていた作風と多少違っていても、というか、多少違っている方がむしろリアリティがあり、説得力を持つのである。そのように「偽の歴史」を捏造するわけであるがそのためには、当然多くの研究と技術の研鑽が必要であり、ラクして儲けるためとはやや違った行為だったとみなしうるだろう。
ちなみに、なぜ日本で今回この「ベルトラッキ作品」が、美術館が購入後30年以上も経ってから出現したのかといえば、アメリカのベルトラッキに関するテレビ番組を見ていた日本の美術関係者が、そこで映されていた彼の贋作リストにこの2点があることに気づき、美術館に連絡したことから発覚したという。もし、その人がそのテレビ番組を見てなかったら今回の贋作騒動には至らなかったわけであるから、美術業界というのは、1人の人間が海外のテレビを見ているか、いないかに左右されるのだな、と、美術業界と無縁の私としても、やや神妙な気持ちになったのである。
そのアメリカのテレビがどんな番組だったのか私にはわからないが、「開運!なんでも鑑定団」のような番組かもしれない。この番組はベルトラッキ的な「売れるか」「売れないか」という視点に全ての価値基準を合わせているからである。同時に「贋作」を暴く一面があるからでもある。
「開運!なんでも鑑定団」というのは、極めて斬新な美術に関するテレビ番組である。全ての価値がお金という物差しで図られる。どんなに持ち主にとって大事なものであろうと、市場価値が低ければ1000円というように安値で判定される。「美」のような主観的なものは評価の対象にならない。希少価値があるかどうか、高額で買う者がこの世に存在するかどうかが判定の「基準」なのである。東西を問わず、また古今も問わず、絵画から彫刻、工芸品、石、楽器、本、玩具、切手、コイン、靴、サンゴ、自動販売機、髪の毛、野球のサインボールまで、とにかく「いくらになるか?」だけが価値基準となっているのである。その問いは根本的なもうひとつの問い「では、芸術とは何か?」を呼び込み、視聴者を悩ませ、考え込ませてしまうのである。多くの視聴者は、この番組を見終わると常に大きくため息を漏らすという。
毎週鑑定依頼者が自慢の一品を持参して、例えば「一千万円で!」というように自身の持ち込んだ品の価値を予想をするのであるが、鑑定士達が奇妙なBGMの流れる中、スタジオの中で真偽を判定し(本当にその時に判定しているのかどうかはわからないが)、贋作の場合は、金額が「1000円」とか「2000円」などと表示される。和服の男が「どこから見ても真っ赤なニセモノです!」と言ったり、緑の髪の女性が「残念ながら贋作ですね」とバッサリ言うところが山場になっている。
恐ろしいのは、判定が下るまで、一視聴者である私は、鑑定依頼者同様、本物であると確信したりしているのであるが、「ニセモノです」と判定が下るや、やっぱりな、ニセモノだと思ったよ、とか、よく見ると色が違う、とか、線が雑だものな、と、あっさり寝返ってしまうことである。「転向とはこういうものか」ということを毎週実感しているという意味では、一種の政治番組かもしれない。人間の決断というのがいかにいい加減にできているかということも「判定」してしまう恐ろしい心理解剖番組ということも言えるわけであるが、さて、ところで、贋作というのが今でもこのようにごく普通に日本各地のコレクターのもとで保管されていることに率直に私は驚くのであるけれども、贋作は昔からよく作られているのであって、「日本のベルトラッキ」と言えそうな人物として、やや昔のことであるが滝川太郎という男がいる。
彼は、1903年生まれの洋画家で、二科展に若くして入選、渡仏し、フランス人女性と結婚するが、活躍は画家としてではなく、「いかがわしい」作品を日本人に売りつけるブローカーとしてだったという。後に西洋美術館に渡ったルノアールの贋作「少女」もまた彼が描いたものだった。
というのは、美術批評家でコレクターとして著名な久保貞次郎が生前「ありゃあ、滝川の描いたもので、私が一時もったもんです。兜屋に預けて売ってもらった」と証言したからである。その「売った」先が藤山愛一郎という政治家で、彼の家にあったのだが、盗まれた。当時の価格でその「少女」は時価1千万円以上と言われ、今の1億円に相当するというが、藤山は「盗んだ人を罪にするのが本意ではない。あの絵が出て来たら西洋美術館へ寄贈する」と呼びかけた。無事に絵は戻って来たのであるが、国立西洋美術館が「鑑定」した結果、ルノワールの真作ではないことが明らかになり、展示されることはなかったのである。
このあたりのことは『芸術とスキャンダルの間 戦後美術事件史』(大島一洋/講談社現代新書/2006)に詳しく書いてあり、面白い。滝川自身は贋作を否定しているが、久保によれば「控えめに見ても」200点は滝川の手になる贋作があるという。ベルトラッキが300点と言っているからそのあたりでも割と肩を並べる存在のように思われる。ただ、この数はあくまでも久保によるものであり、またベルトラッキにしても自己申告であるから、確実な数字とは言い難いけれども、私がこの2人を似通っていると思うのは、ベルトラッキも滝川も、時代を利用したという点である。
戦後、東京都美術館で開催された第1回泰西名画展の60点のうち20点がこの滝川が関与したものであったが、この泰西美術展のレビューを書いた画家の硲伊之助は、その出品作品群に対して、「それにしても、伊太利ルネッサンスの作品というものや、コロと言われるもの、ウトリヨ、モヂリアニ、アンリ・ルゥソォなどとよばれているものは、好い絵でないばかりでなく、その前に立つて唖然とさせられた」と、なんでも鑑定団の鑑定士のごとく辛辣に出品作に対してニセモノの判定を下したのである(前掲書)。一時的に西洋の文化が遮断されていた戦中を経て、ようやく様々な舶来品と堂々と向き合うことができる時代が訪れた戦後の、湧き上がる大衆の欲望を滝川は利用したわけである。実在の画家の知られざる「空白期」の作品と称して贋作を制作していたベルトラッキと共通する「大衆の欲望」に忠実な贋作師だったわけである。

滝川太郎(1903年生まれ)と近い世代に井伏鱒二がいるが(1898年生まれ)、例の泰西名画展のレビューで「贋作」の多さを批判した谺伊之助は井伏と交流が深く、井伏は彼の絵を高く評価していたという。
そもそも井伏は、元々画家になるつもりで橋本関雪の弟子になろうとしたり、日本美術学校にも入学しているほどであり、60歳前後で画塾に通い、この時初めて油絵を学んでいる。没後には画集も刊行されているくらいなのであるが、ところで彼の『山椒魚』(新潮文庫/1948/改版2011)を読んでいたら「寒山拾得」という一編があり、あれ、こんなのあったっけ、と私は思ったのである。「こんなのあったっけ」というのは短編集を読み直す際によくある現象で、通読する際に読み落としていたと思われるが、知らぬ間に作品が増えている可能性もある。冷静な私が初読の時に作品に気づかないことなどあり得ないからである。夜中に勝手に入り込んだのかもしれず、不法侵入と思えるが、この不法侵入作「寒山拾得」を読んでみるとこれが傑作だった。なぜ今まで気づかなかったかと悔やみ、また驚いたのである。冒頭から、
(遠い旅先で、思いがけなく知人に出会すことがあると、日常とは違った立場の気持に直ぐ賛成してしまうものですね。旅行気分というわけなのでしょうか。私はこの秋、B町へ旅行した時、早稲田の文科の時の級友であった佐竹小一に逢いました。[略])
という始まりで、こんな書き出しは見たことがない。書き出しを、カッコから始めるなど大変魅力的である。作品本体も、さっと描いた水墨画のようなラフな手つきで全部で数ページだけ、登場人物も2人しか出てこない。掌編と呼べる作品であるが、語り手「私」は出版社の校正係で、この書き出しにあるように、古い仲間と旅先でばったり会ったのである。
この旧知の佐竹小一は、旅から旅へと渡り歩く「旅絵師」で、宿に逗留してはそこにある襖絵や掛軸の絵を模写し、それを次の旅先で売り捌いている。つまり「贋作師」であって、この日は寒山拾得を写していた。語り手もまた遊びで彼から筆を借りて山水画を描くのであるが、下手だが楽しくて仕方がないという様子が実に生き生きと伝わってくるのである(絵を学んでいた時の作者自身の気持ちかもしれない)。夜になり佐竹は絵を売りに出かける。雨が降ってきたので傘を持って語り手が迎えに行くと、佐竹は、寒山拾得こそ売れ残ったものの他は売れて、なかなかの上機嫌のようである。晩飯を共にして泥酔して宿に戻る途中、2人はげらげら笑い出す。それがこの一編の後半である。本当に「げらげら、げらげらげら」と書いてある。
読者はなにごとが起きたのかと思うわけだが、寒山拾得に描かれる2人の僧を真似て笑っているのだ。小説の登場人物が、絵の中の登場人物である僧のモノマネをし始めたのである。本作の登場人物が2人に絞られていたのは、寒山拾得に描かれる2人の僧と重ねていたのだろう。
寒山拾得に描かれる僧は、実在したのかどうか、今もわからないらしい。佐竹小一なる旅絵師は、小説の中の人物であり、実在しない。語り手である出版社の校正係の「私」もまた語り手であり、実際にはいない人物である。そのことははっきりしている。しかしながら井伏鱒二の小説の特徴がそうであるように、登場人物のその非実在性は、常に揺らいでいる。もちろん「山椒魚」の心理というのは確認できないわけだけれども、山椒魚は実在する。「黒い雨」には元になる日記があり(重松日記)、実際に起きたことであるのが重要である。小説「寒山拾得」の中の佐竹小一にもモデルがいるのかもしれない。語り手である「私」は校正係と言っているが、この感じは、どうみても井伏のようではないか? もちろん探ったところで明快な答えは出ない問いである。
いずれにせよ、小説の登場人物の2人が、寒山拾得の絵に描かれている2人の僧のニセモノのように振る舞っているのは興味深い。小説というのは「人間」のニセモノを常に作り出している装置なのかもしれないからだし、井伏は本作で小説を使って小説の本質を語らせているようにも思えるからである。
井伏作「寒山拾得」のラストで、「旅絵師」佐竹が語り手「私」に対して、「げらげらげら! おい、落ち葉を降らせ!」と命じる。「げらげら……その木をゆすぶるんだ!」と言うのである。完全に寒山拾得に同化してしまおうとする不気味なクライマックスなのであるが、落ち葉と画家といえば、誰もが思い出すのはO・ヘンリの「最後の一葉」である。
ある若い女性が、重い肺炎ですっかり弱気になり、医者もサジを投げるほどであり、彼女は、窓の外の木の葉の最後の1枚が落ちたなら、その時は自分の命も果てるのだと思い込んでしまう。嵐の後の朝、絶対にもう葉っぱは落ちたに違いないと、その病床の女性がシェードをあげるように看護してくれている友人に頼むと、なぜか1枚だけ残っている。そんなはずはない。ふとそれが、壁に描かれた葉っぱであることを知る。女性は希望を持ち、病が癒えて恢復するがその葉っぱの絵を描いた老画家は死んでしまう(『O・ヘンリ短編集(三)』大久保康雄訳/新潮文庫/1969)。
井伏鱒二の「寒山拾得」の場合は、残っていた「五六枚の葉」の全てが、雨の中、語り手の揺さぶった力で全部落ち切ってしまうのだが、「最後の一葉」は、雨が降り続いた後にも「あと五つしかないわ」と思ったのに最後の1枚だけ、残った。それはベアマンという名の老画家が、病床の女性のために葉っぱの絵を描いたからであり、夜中に雨に打たれ続けたことが原因で彼は肺炎になり、死ぬ。小学生の時に漫画で読んでその内容を知ってはいたのであるが、改めて原作を読んでみると、死んだ老人が画家なのはわかっていたものの、この病床の女性ジョンジーも、看護している友人スウも、(私の記憶からすっかり抜け落ちていたのだが)共に若き画家だった。つまり、登場するのは医者を除けば全員画家であって、「芸術が芸術を励ます」という構図になっていたのである。
舞台がそもそもグリニッジヴィレッジの芸術家村であり、ジョンジーとスウは共同のアトリエで制作しているという設定で、ベアマン老人の画家のアトリエは階下にあった。彼は怠け者というか、生計は立派なヒゲの老人というルックスを活かして、その芸術家村でモデルとして稼いでいたようである。「部屋の片隅には、何も描いてないカンヴァスが画架にのっていたが、このカンヴァスは傑作の最初の一筆が入れられるのを二十五年間もそこで待ちつづけていたのであった」という恐ろしい一文が書かれている。また別の箇所では「ベアマンは芸術の落伍者であった」とも書かれており、それはラストの「傑作」へ向けてのフリであるとわかりながらも、ある種の読者は、これは俺のことではないかと思うかもしれない。あるいは、芸術に救われるという話というよりも、芸術家が傑作を描いたらただちに死ね、という宣告のようなものとして受け取る向きもあるかもしれないのである。
ところでO・ヘンリというペンネームを最初に使用したのは1899年で、そこから本格的な作家活動が始まったといえるが、1910年に亡くなっているから10年ほどであったのには驚かされる。その風変わりなペンネームの由来は確定しておらず、小鷹信光編訳『O・ヘンリーミステリー傑作選』(河出文庫/1983)の編者あとがきによれば、幼い頃に可愛がっていた野良猫の名前がヘンリーだったから、とか、あるいは、働いていたドラッグストアの店名からだとか(彼は薬剤師の資格も持っていた)、もしくは、Ohio State Penitentiaryオハイオ州立刑務所(彼が服役していた)の綴りからピックアップしたものだとか、様々に言われているそうであるが、そもそもファーストネームが何の略なのかよくわからないのがいい。小鷹は名前そのものが「ミステリー」になっていて面白いと言っているが同感である。
さて、老画家ベアマンのアトリエには白いカンヴァスがあるのみで、誰かに見せるべき自身の絵はなかったようであるが、そもそも小説であり、ベアマンは架空の老画家であって、「ベアマンの絵」なるものはこの世に存在しない。エリック・ロメール75歳の時に発表されたオムニバス映画『パリのランデブー』の第3話にも、架空の絵描きが登場するが、そこに出てくるアトリエも、絵も、実際に存在するものである。
しかも、映画のために描いたのではなく、元からそこはその画家のアトリエで、以前から描かれていたその画家の絵であり、ロメールが気に入って撮影場所になったというのである。『パリのランデブー』自体傑作で、第1話も第2話も素晴らしいのだが、この第3話は、美術史家である夫が新著を出すのでその色校をチェックしに本物を見にピカソ美術館に来た若い女性(ベネディクト・ロワイアン)が、画家(ミカエル・クラフト)にナンパされてアトリエに誘われ、画家は彼女をちょっと口説いてみるが、結局フラれるという、本当にどうでもいいストーリーなのにもかかわらず面白い。その面白さに一役買っているのが、アトリエの雰囲気と絵のどうでもよさそうな面白さなのである。
このアトリエの実際の主は、Pierre de Chevillyピエール・ド・シュヴィという画家で、まだ日本では紹介されていない。映画でアトリエに並べられていたのは、群衆がこちらへ向かって歩いてくる、しかしデモなどではなく、無目的に、なんとなく、というような感じで不思議な印象をもたらす。生真面目なタッチで描かれていながらどうでもよさそう内容であり、ロメール的なバカバカしさが漂っている。いずれ私は実際に彼の絵を見てみたいと思っているほどである。
映画のDVDに封入されている冊子のインタビューではロメールが、「私が出会った画家、ピエール・ド・シュヴィは、私に霊感を与え、皆に霊感を与えてくれました。そして彼は、これもたまたまですが、私好みのアトリエを持っていました。彼は快くそこを撮影場所に提供してくれました。(略)この画家が一方で群衆、他方で空、大きな空間の広がりを書いているという事実は、私の意図にぴったりでした。というのも『パリのランデブー』における空間と群衆はやはりかなりの問題なので…」と語っている(細川晋訳)。シュヴィのホームページを覗いてみると確かに空間というのが彼の主題のようではある。スコンと抜けるような空間というよりも、何かこちらへ迫り出してくるような、空気がこっちへ向かってくるような感じがある。群衆がこちらへ向かってくる。海もこちらへ、ヒタヒタ迫ってくる。雲はこちらへ向かってくる。ゴミの山のようなものも微妙なバランスを保ちきれずこちらへ崩れて迫ってきそうである。木は、いずれもっと枝を伸ばし、葉をわさわさとしげらせてくるというような——そういえば、シュヴィの描く木々は葉もびっしりである。アンチ最後の一葉と言いたくなるほどフサフサしている。「傑作」だけは描くまいと決心しているかのようにすら映るのである。
さて、ところで、冒頭のベルトラッキが標的にした画家は、徳島県立近代美術館の方はフランスのジャン・メッツァンジェという日本語としては不幸なことに極めて読みにくく覚えにくい名前なのであった。また高知県立美術館の絵は、ドイツ人画家ハインリヒ・カンペンドンクという名であり、こちらは少々オノマトペ的というか親しみやすさがある語感ではあるが、やはり、「ウォルフガング・ベルトラッキ」にはかなわない。ほとんどブランド名のような立派さがある。皮肉なことに、今回の贋作騒動によってベルトラッキの知名度は巨匠並みに上がってしまったようである。我々大衆の「欲望」も掻き立てられ、一般公開されることになり、かなりの観客を集めたという。
もちろん、最大の皮肉は、未来にこそかかっている。今は平凡な一画家として活動しているらしいベルトラッキの、そのオリジナル作品のニセモノを作る贋作師が現れたときに感じることができるだろうから。しかし、果たしてそんな時代は来るのだろうか。