
地名
なまえのこと
漫画ナマエミョウジ文フィクショナガシン

子供の頃、教室の中で孤独に過ごすのはかなり難易度が高いことだった。とりわけ休み時間というのは「にぎやか」に過ごすべきという常識があり、級友と歓談するのが自然と求められるのであって、無言を貫くなどもってのほかという空気が流れていたのである。授業という拘束時間からの束の間の自由時間であり、椅子から立ち上がり、教室のどこかへ移動したり、あるいは廊下へ出て走ったりといった快活なる行動をすることが、それこそ無言のうちに求められているのであった。
休み時間になっても机の前から動かず、しかもまだ授業時間であるかのように口を閉ざしたままうつむいている少数の児童は、もし、窓の外からある種の異星人が地球を全方位的に観察していたら、何らかの正体不明な見えない権力に身動き取れぬまま抵抗しているナワリヌイ的な政治運動家のように映るかもしれなかった。もしくは、まだ10年そこそこしか生きていない小さな存在による修行のように見えるかもしれないと思われた。
当時は、ひとクラスに40名以上はいたのだから、このような孤独族とでもいうべき人種も必ず2、3名はいたのであり、そのような孤独族は決まって読書好きであり、しかも時代的な宿命であるが、角川文庫をみんな読んでいるのであった。私もまたその孤独族のメンバーではあったが、残念なことに赤川次郎にも山川惣治にも谷川俊太郎にも江戸川乱歩にもほとんど興味が持てなかったので(高学年になって接することになった「かい人21面相」には非常に興味を持っていたが)、特に読むものがなかったのである。しかしながら、そうはいっても5分、10分、もしくは20分という授業の間に挟み込まれる休み時間を、ただじっとしているのはかなり高度な技術を要することであり、それも私には難しいことであった。
そんな私の休み時間の孤独を癒してくれたのが、机の中に入れっぱなしになっていた地図帳だったのである。地図帳を開き、ページごとに断片化された日本列島の、その中に書き込まれた面白い地名を見つけて喜ぶという完全に孤独な行為に没頭していたのである。
その中で、児童の目に燦然と輝く地名というのがいくつかあり、特にナンバーワンと言っていいのが、当時の私にとって未知の領域である東北に位置しており、その先端といってもいい場所にある、恐山なのである。
当時の私は異星人との遭遇や死後の世界の様子、幽霊との対話を詳細に語った子供向けの本やテレビを好んで見ていたのだが、恐山という地名は、まさにそのような本やテレビでたびたび見かけていた有名な名前であり、地図帳の上で実際にその地名が記載されているのと遭遇すると、すでに知っていたにもかかわらず率直に驚きを感じるのである。どうたとえたらいいかわからないが、算数の時間に夏目漱石の名前がその教科書の問題文の中に出てきたような、「え? ここに漱石?」というようなそんな驚きなのであった。
地図帳が示す恐山は、イタコがいるとか日本有数の霊場であるとか、そのような、具体的な像や印象を結ぶような知識を与えてくれない。むしろそこに新鮮さを感じ、またリアリティを得たのかもしれなかった。地図帳の中では、単に一つの山の名前として存在しているのであり、小学校の時に遠足で行った高尾山となんら変わらない。地図の上の事実として「ここに恐山がある」と示しているだけである。しかしそのような謙虚な地図帳の姿勢に却ってリアルさを感じたわけである。
残念ながら恐山という存在は私にとっては地図帳の中の存在にとどまっており、今も行ったことがないけれども、作家の海猫沢めろん氏が、イタコを介して太宰治と対談を試みるという体験記を読んだことがある。太宰生誕100周年を記念してということであったが、文芸誌に発表された時に読んで非常に感銘を受けたけれども、最近、『海猫沢めろん随筆傑作選 生活』(海猫沢めろん/河出書房新社/2024)というエッセイ集が出てそこに収録されていた。そして再読して感動を新たにしたのである。
初出でこの「イタコに太宰治を降ろしてもらってみた」を読んだときは、遠く恐山まで足を運んだにも関わらず、「イタコ」から太宰を降ろすこと自体をたしなめられてしまい、結局はその「イタコ」との対談で終わってしまうという海猫沢めろん氏ならではの世界が開陳されており、さすがだなと私は唸ったものであるが、今回16年ぶりにこの随筆集で読み返してみて、いや、待てよ、と思いを新たにしたのである。
「すいません……太宰、呼べますか」
イタコはしばらく
「うーん」
と、腕組みして顔を上げる。
「……太宰、呼ぶ?」
呼んでくれるのか⁉︎
ほのかな期待に胸を躍らせて私は身を乗り出す。
「どうですか? できませんか?」
「うーん……太宰治は……呼ばないほうが……いいよ。だって、出るか出ないか問題だで……」
さきほどまでの説教ムードとはうってかわって、なんとか一押しすれば行けそうになってきた。
「ちょっと、やってみてもらえませんかね?」
「おれも、呼べねえことねえだが……あれの命日わかってるが?」
と、こんな具合に「イタコ」(男性)は、太宰を呼ぶことをはぐらかし続けるのだが、この調子そのものが、非常に太宰的なように思うのである。太宰は、かつて座談会で、
「傑作だってそんな……あまりに残酷だよ。僕たち、駄作ばかり書いている」
とか、
「座談会はもういいよ。これくらいで……」
とか、座談会を引き受けながらも、話す内容が消極的なのである。しかしながら、消極的でありつつもどこか人懐っこいというか、気を持たせる言い方が気になるのである。引用したのは坂口安吾の『不良少年とキリスト』(新潮文庫/2019)に収録されている坂口、平野謙、織田作之助らとの「現代文学を語る」であるが、この座談会の最後のシメの言葉も太宰で、
「座談会はもうよそう」
というセリフなのである。
また同書に収録されている別の座談会「歓楽極まりて哀情多し」では、坂口、織田、そして司会役の編集者を前にしてその冒頭に、
「座談会をやるのはぼくたちの生命ではない。政治家とか評論家とか、これが喜んで座談会をやる、生命なんです。ぼくは安吾さんにも織田君にも会って、飲むという気持で出て来たのだよ。……傑作意識はいかん」
と、やはり消極的ながらも気をもたせる発言をしているのである。これらを踏まえて、めろん氏の記録したイタコ氏のセリフを読むと、ほとんど、太宰が降りてきてしまっているように思えるのは私だけだろうか。降ろすことを拒むという消極的なポーズが、すでに怪しい。座談会に出席しながらもそれを無下にするような太宰がやりそうなことであるし、にもかかわらずどこか会話を楽しんでいるそのサービス精神が、いかにも太宰らしさそのものに思われる。実は太宰との対談をめろん氏は実現していたのだということが推察できるわけなのである。対談というジャンルの「傑作」といっていい。
前掲書『生活』は、海猫沢めろん氏の小説家デビューから現在までをエッセイで辿れるのだが、氏は数年間熊本に居住していた。全3章のうち第2章が「熊本時代」と名付けられており、少なくない紙幅が費やされている。熊本に全く愛着を感じておらず、AIや整形の話が飛び交っていたり、東京のFMラジオでのパーソナリティーの仕事が舞い込んだり、移動や多忙で精神的な危機を迎えたり、常に不服顔であるようなところが漱石を彷彿とさせて可愛らしい。以前江藤淳が「漱石自身は孤独だが漱石の作品は人を孤独にしない」というようなことを書いていたがめろん氏の仕事にも当てはまると思える。恐山では「太宰」と出会ってしまい、また熊本では自らが漱石風の心情を(望んでいないにもかかわらず)追体験してしまうところからも、氏の文学者としての運命に驚くばかりである。
ところで、熊本には恐山はないものの阿蘇山がある。阿蘇山は恐山ではないのだが、共に巨大なカルデラを要する二重式火山であるところが共通している。また、阿蘇山はアイヌ語の「アソオマイ」(火を噴く山)が元であるという説もあり、恐山は「宇曾利山」とも呼ばれアイヌ語の「ウシュロ」(入江)からその名がきていることから、アイヌを介してこの遠く離れた山はつながっているとも見なせそうである。
その阿蘇山を構成する主要な火山口を阿蘇五岳と呼ぶのだが、そのひとつが根子岳であり、猫岳とも呼ばれている。なぜそう呼ばれているかというと、地元の住民によれば猫岳には、猫の大王が暮らしているからである。
ある時期になると付近の猫がこの大王のもとに集まるという記録が江戸時代の複数の書物に記されているということなのだが、そのうちの一冊が、伊藤常足の『太宰管内志』であり、書名にやや心霊写真的に太宰が顔を出しているのが認められるのである。私が今参照しているのは『猫の王 猫伝承とその源流』(小島瓔禮/角川ソフィア文庫/2024)という名著であるが、この本の記すところによると同様の猫の大王の記述は多く残っており、また言い伝えられているという。
毎年大晦日に御前会議を開いているとか、ある年齢になると家から去って猫岳に向かい、修行をして帰ってくるとか、戻ってきた時にはある種の神通力を得ているとか、また猫岳に行ったきりもう姿を見せないとか、バリエーションを見せながらも、阿蘇山に猫が集まっているらしいことは確かなようである。中には猫岳に向かう時にすでに何らかの兆候として特殊な能力を身につけている場合もあるようで、例えばこんなふうに書かれている。
球磨郡上村ではやや異なって、踊るようになった猫が、猫岳に登っている。あるとき、座敷からトストスという音が聞こえた。主人がのぞくと、長年飼っていた猫が、箒を右肩左肩と、交互にかつぎながら、後足で調子よく踊りまわっている。あとで、主人が猫に、おもしろいことをしていたなというと、猫はニャンと返事をして外に出て行き、それっきり帰って来なかった。猫はこのように、古くなって一人前になると猫岳に登って神通力を得るようになるという。
猫岳に行くと猫はこれまでよりさらにパワーアップするようであるが、この引用で私が気になるのは、むしろ主人の方で「おもしろいことをしていたな」と平然と、肯定的に受け止めている。猫の方は、「ニャン」とのみ答えていて、その意味するところは不明であるが、もしかすると、「え? それだけの反応?」みたいな意味での「ニャン」だったかもしれない。「長い付き合いの私が、初めて箒持って踊っている姿をお前は見たというのに『おもしろいことしていたな』という反応だけなの?」と、主人のヤバさに猫が気づき、立ち去ったのかもしれないようにも思えてくるのである。いずれにせよ、阿蘇山に猫が姿を消す、あるいは大王が住んでおりそこへ向かうというのは、阿蘇という場が一種の死のトポスとして捉えられているのかもしれない。
さて、ところで、フィクショナガ家の墓は熊本にある。熊本の山奥のさらに小さな山の中腹にあるのだが、その住所は岩尻鬼次郎というのである。岩尻が大字(村の名前)で、鬼次郎が小字(村の中の地区の名前)であるようだ。現在は、役所の書類上にのみ残っている地名なのであるが、岩尻もまた想像逞しくなる地名であるものの、鬼次郎はかなり強烈にイメージが湧くのである。つまり、なぜ次男なのかと思うわけであるが、やはりそれは鬼太郎という存在を想起しないわけにはいかないのである。私自身は東京に生まれ、調布市深大寺で育っており、そこには常に水木的な空気が漂っていたのである。
ところでフィクショナガ家には、支那事変で亡くなった若い兵士の墓もある。支那事変という名前は今では微妙なニュアンスを含むものになっているが、満州事変からくすぶっていた(満州事変という呼び方もまた同じく奇妙なネーミングであるが)戦争状態が支那事変によって顕在化したわけである。墓に記された「昭和十二年支那事変勃発と同時に出陣 羅天鎮附近の戦斗に於いて中隊斥候として進んで敵情偵察の重任に服務中敵弾に散る 十月 行年二十二才」という文章を読むと、それは簡便な描写にすぎないのだけれども、リアルな若者の死が感じられてくるのである。満洲事変が起こらなかったら支那事変もなかっただろうし、彼も死ぬことはなかっただろうと思うと胸が痛む。
支那というのは前回南シナ海として登場したが、満洲というのは中国の地に昔からあった地名であり、それが日本によって国名として使用された。満洲というのは、例えば藤子不二雄Aの『まんが道』では満洲会館として登場しているし、過酷な中、生き残り、本土に引き上げてきて後年漫画家として我々の目の前に出現する者らも、例えばちばてつや、赤塚不二夫など多くいることによって漫画界にその名をとどめている。今でも彼らの漫画やその関連本を読んでいると日常の中に不意に「満洲」という名は目に飛び込んでくる。そんな日常に生きている満洲という名称なのであるが、さて、ところで、最近よく目に飛び込んでくるといえば夢洲である。
両者はもちろん全く関係ない。夢洲という名称は公募によって決められた。満州は公募によって名付けられてない。面積もだいぶ違う。一方は広大で硬い岩盤に支えられた土地であり、他方は地盤沈下の問題を抱えた科学技術に支えられた島である。また、一方は、ある時点で地図上から姿を消した名前であり、他方は、近年になってその名が地図上に記載されるようになったという点でも大きく違っている。強調しておくが夢洲と満洲は阿蘇山と恐山以上に関係ないのであって、連想というのは関係ないものを結びつけてしまうものだなと痛感させられるのである。しかしながら、双方ともに、国策に翻弄された土地であり、政治指導者の「夢」を背負っているという意味では、やはり、連想を誘う何かを感じざるを得ないが。
夢洲は、現在、万博が行われている場所であるが、1977年から建築残土などの「ごみ」によって大阪湾を埋め立てることで生まれた人工島である。すでに触れたように、夢洲という命名は大阪市が公募し、およそ1600件から選ばれたという。1991年のことである。選ばれたのは40代の男性だったようだ。百人一首18番の「住江の岸による波よるさへや夢の通ひ路人めよくらむ」(藤原敏行)から「夢洲」と名付けられたという。ちなみに、序歌として知られる「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」は同じく付近の人工島である「咲洲」の命名につながり、そこからの「連想」によって「舞」が浮かび、同じ大阪の「舞洲」になったらしい。「洲」を「しま」と呼ぶのは独特であるがこれもまた40代男性応募者の発案だったようである。
舞洲、咲洲は割といい命名と思うけれども夢洲というのはどうしても東京の「夢の島」との関連を考えざるを得ない。もし、シコ名であったなら、東西で土俵に上がるとき、力士が「夢の島」と「夢洲」では、呼出は非常にやりにくいのではないだろうか。選んだ側の思惑として、博打との関連づけがあったのかもしれない。「ドリーム」というのは、博打と切ってもきれないイメージだからである。残念ながら「夢洲」では二番煎じ感を拭うことはできないのである。もっとも、応募する側よりもむしろ「選ぶ側」のセンスが問われるのであり、選考委員が甘かったのだろう。
そういえば「大屋根リング」も、昨年の8月に愛称の公募が知事によって提案されたものの、今年1月には撤回された。パフレットなどに間に合わないことがわかったからという理由だったが、なくなってよかったと思う。「大屋根リング」というすでに定着している名前があるのだし、その即物性は意外と現代とマッチしているように思えるからである。
「愛称の公募」は、決めたところでその場限りのお祭りでしかないことも多い。しかも、すでに述べたように、せっかくいい名称が応募されても選考の過程で弾かれてしまう可能性がある。人間が地名などを意図的に名づける場合は、赤毛のアン的な才覚、モンゴメリ的センスでもない限り無理であろうと私は思う。アヴォンリーなど本当にあるとしか思えない地名ではないか。
話はいつものように飛んでいくばかりなのであるが、『アタゴオル物語』(ますむらひろし/サンコミックス/1981)の舞台であるアタゴオルというのが、千葉県野田市の愛宕駅に由来しているのは有名な話である。アタゴオルのある大陸がヨネザアドであり、山形県の米沢からきている。彼の漫画の世界は、作者の故郷(米沢)、生活している場所(愛宕駅周辺)と結びついてできているというわけだろう。
私は中学入学のお祝いにちょうど刊行されたばかりだった『アタゴオル物語』全6巻を親に所望した人間であり、いずれ自分は一人、夜中に自販機の後ろ側からアタゴオルに入り込み、テンプラやパンツやヒデヨシらとネズミトランプをするつもりでいたのである。休み時間に人と語らうことの苦手な孤独で内気で無口な少年を魅了したのは、この漫画の各回のラストのオチがいつも一枚絵になっているという終わり方にあった。夢から覚めるような、ハッとする感じ、それまで物語を秩序づけていたコマ割りが一瞬にして用をなさなくなったような開放感があったのである。
その中で私が好きな回はたくさんあるのだが、今、ふと思い浮かび、読み直したのは「猫の目岩の奥で」である。アタゴオルとそっくりな“眠りの国”へヒデヨシとテンプラが迷い込んでしまうのだが、それは夢を見ているときに脳内に出現する「国」なのである。夢を見ているときに自分が夢の中にいると思っているが、実際は、“眠りの国”で生きている「自分」が夢の中に出てきているに過ぎないと説明される。そっくりな2つの世界があるというわけである。ラストはうっかりここに書きたいほどに素晴らしく、またそれが「夢の目覚め」を思わせるハッとした開放感を感じさせる作者独特の一枚絵なのである。
ところで、ふと思ったのであるが、支那事変で死んだ我がフィクショナガ家の青年は、岩尻の鬼次郎という自身の地に墓に眠ることになった。しかし、おそらく「骨」はないだろう。あるとしてもわずかなものに違いなかった。簡素な墓だった。他にも全く同じデザインの墓が並んでおり、「レイテ戦のカンギボット山方面の戦斗に於て戦死」「北支戦斗に於て戦死」「湖南省方面の戦斗に於て戦死」などというように曖昧な記述にとどまっていることから、骨を拾える状況ではなかっただろうと思われた。しかし、「骨」はなくとも墓は作れるのである。彼らが生まれ育った場所、そして彼らの親類が住むのが、鬼次郎とかつて呼ばれたこの地なのであるから、鬼次郎に墓はあるべきであろう。さて、夢洲はシンガポールのマリーナベイサンズが「ライバル」だそうだが、数年後にカジノなどを展開する統合型リゾート地区になったとき、万博以上に、夢洲は、リアルな人間の感情を引き受けることになるはずである。
人が住み、金を失い、儲け、そして生きる場所という、そんな人間の重たい宿命を背負いながら、夢洲は、地盤沈下に抵抗しつつ、海の上の文字通り蜃気楼のような場所を確保しようというわけであり、その涙ぐましい努力に対しては、私は頭を下げる者である。ところで夢洲の先で、さらに海は埋め立てられており、次なる島が生まれるとのことであり、大阪はその面積を着々と拡張しつつあるようである。いずれ人間の墓場を作るといいと思う。