空に浮かぶもの
なまえのこと
漫画ナマエミョウジ文フィクショナガシン
うっかりしていたが台風に名前が付いていた。
北米だけの習慣とばかり思っていたが違った。アジア界隈でもう24年前から、ミレニアムの年から名前が付けられていたという。
先月の台風10号が、予想を覆す迷走ぶり、「自転車並み」でなかなか先へ進まぬジレッたさ、広範囲地域での大きな被害ということもあってであろう、関心がふだんに比べて増したようであり、台風関連の様々な情報がもたらされたが、その中に、この「実は名前が付いている」もあった。台風10号は香港命名のサンサンだった。少女の愛称としてポピュラーな名前だそうであるが、「この台風10号、実はサンサンという名前なんです」などと紹介されたのは、概ね、熱帯低気圧になってからだった。
台風委員会なる国際組織があり、台風の発生する太平洋と密接な14の国と地域が名前を10個持ち寄って、計140、そのストックの中から順番に「台風の名前」を使用している。今年の台風第1号はイーウィニャだった。ミクロネシア命名の名前で「嵐の神」を意味する。気象庁のウェブサイトにそう書いてある。全く知らなかったが、イーウィニャは5月に発生した台風だった(日本まで来ることはなかった)。
140の台風名ストックリストを見ると、台風に寄せてくる国と、そうでない国に分けられるが、私の見たところ、フィリピンがもっとも台風に寄せたネーミングで徹底している。ミクロネシアのイーウィニャに続く台風2号は、フィリピン命名のマリクシという名前の台風で、その意味は「速い」だった。
フィリピンは他に、ラガサという名前は「動きを速めること」、ハグピートは「ムチ打つこと」、また、タリム(鋭い刃先)、タラス(鋭さ)、ルピート(冷酷な)というように、恐怖を感じさせる言葉を選んでいる。
さらに、シマロンは「野生の牛」であり、制御のきかない自然を感じさせるし、ナーラは家具等で有名な木の名前であり、強さを象徴しているだろう。ダナスは「経験すること」で、毎年来る台風への備えの大切さを諭している。アムヤオは、フィリピンの山であり、なぜこの山かという疑問は若干残るものの、山というのは富をもたらすこともあれば危険な目にも合う、そう読むことも可能だ。
台風と関係あるのとないのと半々な命名をしているのは中国で、「雷の母」とか「海神」、「風神」といった名前は直球で台風っぽく、中でも「悟空」は、孫悟空が自在に乗りこなすあの想像上の雲、キン斗雲を想像させる台風名である。だが、残りはお花の名前だったり、イソギンチャクなどであり、一貫していないようである。
先日『本当は怖ろしい漢字』(火田博文/彩図社/2020)を読んでいたら、「号」というのは、刑罰に由来する漢字であると知った。地面に生き埋めにされて叫んでいる、「その激しさと絶望とを表す文字」であるらしい。号泣や怒号と使われることにはその残滓があるというのである。
列車や船の名前などの後に「号」をつけるのは、他との区別、識別をはっきりするためだが、そこには人に気づいてほしいという願いが込められてもいるというのであるが、だとすれば、中国の本領は、この「台風1号」などの番号の方にこそ、あるのかもしれない。確かに台風1番、台風2番とは呼ばない(春一番というのはあるけれども)。
さて、我が国はといえば、これが全く台風と無関係な、星座の名前からの転用である。
「子犬」とか「ヤギ」とか「琴」とか「時計」とかが日本の命名であり、星座にちなんでいるという。台風と星座は、どちらも空、天空に由来するのが命名の理由であると気象庁は述べているが、あまり説得的ではない。星座は、天空というよりも「夜空」にだけマッピングされるもので、昼間には消滅しているし、そもそも極めて地上的なものである(地上の視点によってしか、星座は存在しえない)。
だが、台風は違う。昼夜問わず24時間稼働しており、人工衛星からの視点によって我々は確認している。星座とは逆方向の視線によって、視覚的に捉えているのである。星座は現実にはない、イマジネーションの産物であるが、台風は現実そのものである。というわけで、そんな名前を台風につけるなんてずいぶん倒錯的だなあと思ったのである。
さて、台風ネームはすでに述べたように、14の国が10個ずつ持ち寄っているから合計140個あるわけだが、これを繰り返し使用している。だが、差し替えられることがあり、それは甚大な被害を与えた台風の場合である。
大きな災害をもたらした台風は、その加盟地域、国の要請を受けて、現在の名前の使用を停止、新たな名前をつけることになるという。
意外と頻繁に変更は行われており、台風という存在がいかにしょっちゅう人間に多くの被害をもたらしているかがわかる。日本では、5年前の10月、やや遅い時期にやってきた台風19号が多くの死者を出した。川が決壊し、住宅が水没してしまうほどで、甚大な災害であったが、この台風19号はフィリピン命名のハギビスだった。「すばやい」という意味であったが、2年後の2021年度からストックから外された。そして、同じフィリピンによって、ラガサという名前に差し替えられた。先ほど見たようにこれは「動きを速めること」を意味している。「すばやい」とさほど変わらぬネーミングである。
ラガサといい、ハギビスといい、タガログ語であるが、台風の名前は現地の言葉で採用するのがコンセプトのようである。香港のサンサンは広東語読み、こいぬ座に由来する日本命名の台風はコイヌと呼ばれている。
いろんな言語を知ることができて楽しいが、そうなると、似た音で、意味が異なるということも出て(カツオがイタリア語では陰茎を意味してしまうように)、これが変更の理由になる場合もあるそうだ。
やはりフィリピン命名のマラカス(強い)は、これがギリシャ語では「馬鹿野郎」という意味のスラングと同じであったため、変更すべし、となった。それで、アムヤオという山の名前になったのだが、「強い」の差し替えとして相応しいかどうか、私には判断ができない。ラテンのあの楽器と同じならまだしも、馬鹿野郎はよくない、となったのだろう。ギリシャは台風委員会に所属してないものの、さすがに台風をバカ呼ばわりするのはまずい、こんなのを使っていたら馬鹿野郎だ、ということになったのだと思う。
ところで、ちょうど今年の台風第1号であるイーウィニャが発生し、北上し始めた5月末、朝鮮半島の軍事境界線の上空を、複数の白い大きな風船3500個が、南へ向かってぷかぷか移動していた。
正式にはなんて呼ぶのか私は知らないが、各国のマスメディアでは汚物風船と呼ばれ、タバコの吸殻や紙くず、使用済みの電池や電気製品の部品などのゴミや糞便をぶら下げて北朝鮮が空に飛ばし、韓国に落としたと広く報道された。
韓国が、やはり風船などを使って、脱北を促すビラを飛ばすなどした「報復」だというが、今後同様のことがあれば、100倍の汚物とゴミを送りつけると国防次官が談話を発表したと報道されている(6月2日)。
それで思い出したのは、「我が民族は1000年の宿敵である日本の罪悪を必ず1100倍に精算していくだろう」というような北朝鮮サイドの数年前のコメントである。「1000年」に対して「1100倍」と数を上乗せしているのが印象的なのだが、時に「日本は100年の宿敵、中国は1000年の宿敵」というようにランクが下がることがある。「100倍」とか「1100倍」とか、お返しにしては大きすぎるように思えるが、いずれにせよ、私は北朝鮮の政治指導者や報道従事者が時折発する、この独特な、威嚇的な言語表現に興味を持つ者であり、それはある懐かしさを感じるからである。昔の日本を見るような郷愁に包まれるからかもしれない。
日本は第2次大戦末期の1944年、爆弾をぶら下げた気球を米国めがけて飛ばすという、気の遠くなる作戦を実行した。ぷかぷか爆弾が浮かんで西へと進んでいる様子は想像するだけおぞましい。よく思いついたものであるが、それから80年後に北朝鮮内部で「よし、クソでも飛ばすか」という発想が頭に浮かんだ瞬間があったことに、私は人間という存在の異常な奥深さを感じた次第である。
ただ、北朝鮮は意外なことに、さっきから取り上げてきた台風ネームにおいては、「柳」であるとか「かもめ」とか、穏やかな風を感じさせる、極めて詩的な名前を提出している。
「たんぽぽ」は綿毛は風で運ばれるし、「やまびこ」は、空気の満たされた空間を感じさせる。「とんぼ」という名前は秋の訪れ、台風の終わりを感じさせ、「夕焼け」は台風が去り、快晴が戻ったホッとした日常を想像させるだろう。
うろこ雲とか入道雲、かなとこ雲といったのと似た、日常の中に溶け込むようなネーミングで、自然を見つめる優しい視線を感じるチョイスである。「思い知るがよい」的な、あの高圧的な言語表現とは全く違う。
かなとこ雲ってどんなだっけ、と思って『空の見つけかた事典』(武田康男/山と渓谷社/2022)をめくっていたら、問答雲なる雲が出てきたのだが、そんなのがあるのを初めて知った。
高いところを西から東へ流れる雲と、低いところを流れる雲が、向き合うように、すれ違う。そのような高い雲、低い雲のセットが、問答雲と呼ばれる。台風が近づいた時に見られるようである。確かに、そんな雲を見たことがあったように思うが、問答雲という名前は思いつかなかった。言われてみればそう見えてくるから不思議である。
実際に問答する雲が、昔のアリストパネス作『雲』に出てくる。ある親子の対話、その親とソクラテスの対話などで構成されている芝居であるが、雲が重要な役どころとして、割って入る場面がある。これが面白い(『ギリシア喜劇全集1』橋本隆夫ほか訳/岩波書店/2008)。
雲が、人間の女の格好をしているため、親子の親の方が、やや呆れたふうに「これが本当に雲であるなら、人間の女の姿に似ているのはどうしてですか」と疑う。それに対してソクラテスは、そんなの何でもないじゃないか、だってほら、雲が動物に見えることはよくあることだろ、雲はいろんな形に姿を変えるだろうが、というように煙に巻く。
そんなもんかなあ、ふうむ、と主人公は(我々読者も)思うわけであるが、この作品では、「優れた論法」と「劣った論法」という、人間でも生き物でもなんでもない、〈ある状態〉としか言いようのないものが、スタスタ歩いてきて熱い議論をかわすのであり、雲が人間に似てる程度のことで驚いていては、この先の展開についていくことはできまい。
芝居の終盤にある親子の問答は、ほとんど口論といった方がいいのだが、息子が父親を殴りながらという異様なシチュエーションでの対話であり、息子が父親を殴るその理由を殴りながら語るのであるが、子供の頃にあんたから暴力を受けたんだから、俺には殴る権利があるのだ、と言い、父親の方は、殴られながら、親は子供に暴力を振るっていいが親にはダメだ、殴りたいなら自分の子供を殴るんだな、と一歩もひかない。ムチャクチャな議論であり、ほとんどスラップスティックであるが、この場面だけでも暴力好きな現代の政治指導者諸君にぜひ演じてもらいたいと思う。