田辺市「ビートル」の 「日清焼そば」
甲斐みのりの焼きそば道楽
文:甲斐みのり写真:村上誠
和歌山県田辺市の田辺湾を見晴らす高台にある〈ビートル〉は、50年以上前に母親が始めた喫茶店を、堅田和哉さん受け継ぎ営む喫茶店。レコード、オープンリールデッキ、ギター、本、昭和の玩具、マッチコレクションが整然と並び、マスターの趣味の部屋を訪ねたような趣に満ちている。
名物として知られているのが、マスター曰く“柴犬の背中色”をした、ぽってりつやつやのホットケーキ。少年時代に見た古いホットケーキ箱の写真を再現しようと、粉の配合も作り方も研究を重ねて、じっくり時間をかけてフラパンで焼き上げる逸品だ。
知る人ぞ知る店ながら、簡単に辿り着けないのもビートルのおもしろさ。田辺市の中心・紀伊田辺駅から店までの距離は徒歩45分。営業は平日の夜間のみ。マスターの本職はデザイナーで、そちらが忙しければ臨時休業もありえる。カウンターとテーブルともに数席とこぢんまりしているが、一人で切り盛りしているため来客が重なれば、注文から提供までにそれなりの時間がかかることも。それでもわざわざ遠方から足を運ぶ人が絶えないのは、ここにしかない情調やメニューに惹きつけられてのことだろう。
最初は私も、マスターが強い思い入れを抱いて作るホットケーキをぜひ食べてみてほしいと地元の方に勧められて、ホットケーキ目当てで店を訪れた。ところが、ホットケーキのこだわりやおいしさだけに留まらず、マスター自身が持つ熱量がぐっと胸に迫り、店そのもののファンになった。
コーヒー、ホットケーキ、ホットドッグと、ビートルの主なメニューには、マスターのユニークな視点で綴られたエッセーが添えられている。
日清焼そば ¥300
私は「日清焼そば」が気に入っています。どれほど気に入っているかというと発売された昭和38年から食べ続けています。
これは、インスタントの袋麺を材料に作る焼きそばメニューのエッセーの冒頭。昭和38年といえば、1964年東京オリンピックが開催される前年で、マスターが8歳のとき。コンロの火は母親につけてもらっていたけれど、当時からフライパンを手に自ら調理していたという。
愛好するものやことに対して、深い愛を持って探究し続ける几帳面なマスターが、60年作り続けるのだから、味わいはさぞかしだろう。そうして注文した日清焼そばは、想像を超える硬派なスタイルで登場。オムレツのようにラグビーボール型に整えられ、こんがり焼き目がついた表面はぱりぱりで、内側はしっとり。ほんのりふりかけられた青のりと、ちょこんとのった紅生姜の他に具材は入っていない。
作り方は「喫茶ビートルの日清焼そば」と題し、YouTubeでも公開されている。独特なのは、最後まで麺がのびにくいように沸騰した水に4等分した麺を入れること。胃もたれしないように湯切りをした麺に紅生姜の汁を加えること。公式の作り方には麺に粉末ソースを合わせて炒めるとき「チリチリと焦げるような音がしてきたらできあがり」とあるが、マスターはさらに5分ほど、フライパンを優しく揺すりながら火にかける。そのうちサラサラカサカサと、フライパンと麺の焦げ目が擦れる音がしてきたら完成だ。
表面をパリパリに焼くことで、他に具がなくても食感だけで満足感が得られる。60年間作り続けてきたマスターならではの究極の日清焼そば。映像をみながら同じように作ってみても、まだまだマスターの味には近づけない。