不味い店
京都ビザール
「金払うのが嫌なくらい不味いものってなくなったんだけど、美味いもののレベルは確実に下がっていて、文化的な意味合いにおいてすごく大きな損失だと思う。同時に金を払いたくないくらい不味いものがないというのも、笑いを中心とした文化的な損失でもある」
オオヤミノル氏の著書『喫茶店のディスクール』中の印象的な一節だ。なぜ笑えるほど不味いものが失われることが文化的な損失なのか。なぜそのようなものが失われつつあるのか。
そもそもオオヤ氏の言う「不味い」とは。そして、そんな不味い店にわざわざ足を運ぶ理由とは。
同書刊行から半年後、半世紀に及ぶ京都での飲食体験を振り返りつつ、酒場で膝を交え、さらなるディスクールを展開してもらった。

不味くても実質が売り物だった頃
──そもそも不味い店って、どういう店のことだと思います?
いまだに多いんだけど、おそらく1990年代から始まった、味を薄くすればオシャレだっていう感覚があるよね。よく「京風」とか言われているものって、丁寧に取った薄い出汁に、ちょっとだけ塩気を加えるから美味しく感じるわけでしょう。でも「薄味はんなり」と「水臭い」はぜんぜん違う。味付けを薄くするかわりに素材をたくさん凝縮させて味わいを増す、そんなコストパフォーマンスの悪いことは誰もやらなくなったんだろうね。不味い店の典型はしょっぱいものがしょっぱくなくて、甘いものが甘くない。そういうものを出す店を俺は不味い店だと思うんだけど。
──京都の店で思い出深いとこってあります?
京都大学の近く、百万遍上がったところにあった、夜中までやっている中華料理屋にはよく行ったよ。美味いとか不味いとかいう以前に味がいっつも違う。あんかけの加減なんかもいっつも違う。みんな何も考えず、検証もせずに食べてるんだけど、美味いか不味いかを考えたら、確実に不味い。でもね、俺は好きだったんだよ。そういう店の話をすると「マスターとか雰囲気がいいんでしょ?」とかみんな言うんだけど、別にその店でマスターと喋るわけでもない。いつまでも学生みたいに見えるオッサンとか、太った大学生とか、うだつの上がらない京大の助教みたいなやつらがストレス満タンで、真夜中に美味いのか不味いのかわからないものをムシャムシャ食っているっていう世界。
そういう世界に反して、2000年くらいから急に増えだしたのが、みんなが美味しいっていうし、店やってる本人も美味しいと思っているんだけど、実際は大して美味しくないのにちゃっかり、ナチュールワインは出してます、みたいな店。あと、喫茶店のくせに、必要以上の大皿にソースをシャーって斜めにかけて、皿の余白にポタポタ落としだすともうダメ。それを喜ぶ客が現れて、そういう客を真剣に相手にしだして、一端みたいな雰囲気を出し始める。どんな仕事でも素人を騙す程度の上っ面くらいはすぐに身につけることはできるんだよ。そう考えると、不味くても実質が売り物だった頃のほうがよっぽどいいよね。

「もしかして」で暖簾をくぐる「ダメ寿司」
──来る客のためによかれと思って夜中まで実直に営業して結果不味い店と、こうやっとけば喜ばれて客が増えるだろうという曖昧な雰囲気を提供する店。
一時期「ダメ寿司」っていうのに凝っていたことがあって。かつて勢いがあったんだろうけど、いまはもうその面影もない店のことをそう呼んでいたんだけど。
例えば、物集女街道あたりに実際にあった店は、席ついてふと見たらネタケースに雑誌が入ってるんだよ。で、唐揚げとか焼きそばとか出してくれるんだけど、最後に寿司お願いしたら「寿司はない」とか言われるんだよ。
あとは、一時期多かったカウンターに手を洗うためのレーンがあって、おそらく昔は水が出ていたであろうけど今は出ません、みたいな店とか。で、そういう店って、スーパーのパックに入ったままのマグロとかがネタケースに並んでるんだよ。もう、それ剥いてそのまま出してくれたらいいんだけど、大将が気持ちでなんか盛り付けてくれたりするのね。そういうのつまみながら、連れと一流の寿司屋の話とかしてたら、帰りに「ウチはこんなもんです」とかって頭下げられたりしてさあ。
なんでそんなところにわざわざ行くかっていうと、薄暗くなった通りの提灯に風情ある感じで「〇〇寿司」とか書いてあったら、「もしかして」とか思うんだよ。次こそは隠れた名店なんじゃないかってね。
ケの営みに「カルチャー」はいらない
──よその店の話しながらそこのもん食べるって相当マナー悪いですよ。『美味しんぼ』読みながらコンビニの飯食うみたいな。
一応旨いものの話ししながら食いたいじゃん。
問題は、どんなに不味くっても、若い人が昔風に作った店より、不味くっても本当に古い店のほうがいいんだよね。最近「煮込み居酒屋」みたいな、若い子が古い建物そのままうまく使ってやっている店とか多いよね。でも、それだったらもっと今様のものを新しく作ったら?って思うんだよ。それって「レトロブーム」と変わらないよって。
あと最近、勝手に言ってんだけど「カルチャー立ち食いそば」ってあるでしょう。あれはなんか一段落ちるんだよなあ、俺らの世代は「阪急そば」行ってたからさあ。あと、ビブレの横の立ち食いそばとか、松竹劇場(現MOVIX京都)の南側の犬走りにあった「松竹そば」とか、そこも不味かったんだよ。ワンオペで真夜中まで営業しててさあ。でもなんかよかったんだよね。
立ち食いそばって、「早い・安い」でしょう。でもそうじゃない立ち食いそばとか、若い子が作った古い感じの店って、なんかテーマパークみたいで苦手なんだよ。「なんとか風」とか、フェイクがあんまり好きじゃない。分かるんだけど、そば立ち食いして、風呂あびてっていう営みにカルチャーなんてどうでもいいんだよね。“シェルター”は自分の心の中につくる物なんだよ。
──見せ掛けや雰囲気に奉仕するものではなく、実質が美しい、つまり用の美を志向していると。
アトラクションみたいな昔風の店作るんだったら味も不味くしてほしいよ。ちゃんと昔の人みたいに生活がかかった不味さ。元大工が急に寿司屋始めました、みたいな「どうなってんのこれ?」みたいな味とかね。だったらめっちゃ面白いよね、アトラクションとして。
美味しくない店を美味しくしたがる消費者たち
──行かないですけどね、僕は。
でもね、「不味い店」じゃなくて「悪い店」で嫌な思いしたときは、その店のことを「不味い」ともなんとも言わなかったよ。触れさえしなかった。「不味い店」っていうとみんな引くんだけど、オレら飲食業界の人間が、同業の店を、あそこは「美味い」とか「不味い」とか言うほどのリアリティは、そのニュアンスの「不味い」にはないんだよ。誰かが客として「あそこ不味いんだよ」とか言ったぐらいで売上が下がるようなことが起こるって、それはもはや店の問題というよりも、客が情けないよね。だれかが「不味い」って言ったくらいで行かなくなるなんて、要するに損得の問題でしょう?オレら飯食いに行くとき損得なんて考えてもみなかったからさあ、純粋に楽しみに行ってるんだもん。
ー料理人の美味い不味いではなく、生活人としての美味い不味い。レイヤーが違うんですよね。
そういう「洒落がわかる世界」って本当にもうないよね。よく行く店のことを「不味いんだよ」とか言ってると、東京から来た知り合いとかが「本当は美味しいんでしょう?」とか言うんだけど「いや、本当に不味いの」って。でも行くんだけど、そういうのがわからないみたい。
新京極の老舗の居酒屋あるでしょう。あそこって昔っから特別美味しくないんだよね。そして格別安くもない。だけど俺も好きだし、みんなあそこで一杯やろうよっていう。でもある時期から「あそこって美味しいよね」とかいい出す輩が出始めるんだけど、そんなわけないじゃんって。消費者が自分の都合の良いようにズルやりだしてるんだよね。そういう悪い意味での消費者の団結をネットが強くした。その結果、逆差別みたいなことが起こりはじめて、みんなが自分で判断せずに、点数みたいなのを基準に店を選び始めた。だからといって「食べログ」でめちゃくちゃ書かれたくらいで潰れる店って本当はないんだよ。疑心暗鬼になってやめちゃうっていうパターンはあるかもしれないけど、それは素人だよね。本当は店やってる人間ってもっと強いもんね、ちゃんと計画して店作ってるんだもん。素人に「不味い」とか言われたくらいで店は潰れないんだよ。
取材・構成:堀部篤史
写真:キッチンミノル
