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京都ビザール

老舗のボンが集めた世界の豆コレクション

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このストーリーのはじまりは編集者からの一本の電話だった。「古い話ですみません。門前名物の取材で奥丹に行ってもらった時、地下の核シェルターのような場所に、豆の資料館があったと聞いた記憶があるんですけど覚えてますか?」。

奥丹とはご存じの通り、江戸時代初頭に南禅寺参道で奥の丹後屋として創業した湯豆腐の名店「総本家ゆどうふ奥丹」のこと。私は社寺の門前名物を特集したガイドブックの取材で、2007年4月20日に奥丹清水店(当時)を訪ね、奥丹15代店主・石井康家さん(2010年に逝去)に話を伺った。その際、取材に直接の関係はなかったが、店の地下にある豆資料館を案内してもらった。立派な池泉回遊式の庭をもつ元豪商の別邸だった店の地下に、まさか豆腐の工房や豆の資料館があろうとは思いもよらなかった。核シェルターのたとえは、同行したカメラマンが編集者に伝えた感想だ。17年も前のことだが資料館で1メートルほどもある豆のさやを見せてもらったことは、今も鮮明に覚えている。

あの資料館は一体なんだったのか、果たして今も実在するのだろうか。疑問を解消するべく奥丹へ連絡をとると、石井さんが亡くなったあと、残念ながら資料館は閉鎖され、所蔵していた標本の一部は遺言に基づいて京都府立植物園に寄贈されたという。その後、2011年には寄贈記念の「世界の豆展」が開かれ、10日間で5000人もの来場者があったとのこと。しかし、その後コレクションが日の目を見ることはなく、現在は植物園の倉庫に眠っている。

核シェルターのような地下の資料館に、老舗湯豆腐店の店主が集めた世界の豆たち。その一部を引き継いだ植物園所蔵のコレクションの箱を開き、当時を知る人の話を聞くと、そこには豆に魅せられた人たちが、夢中で豆を追いかけた濃密な時間の断片があった。

〈書き手〉林 宏樹(ライター)

植物園の倉庫に長らく眠っていた豆コレクション。種類ごとに丁寧にパッキングされ、蓋には豆の名称と採集者、採集日、採集場所が記されている。

17年前の取材を思い起こして

私の記憶の中の石井康家さんは、品のある気さくな老舗のご主人だった。1940年10月生まれだから、お会いした時は66歳だったことになる。
ライターあるあるだと思うのだが、取材した店を他媒体で再度取材することはよくある。だから取材メモや資料は、捨てずに取っておくのが常だ。2007年に奥丹を取材した際のメモも段ボール箱の中から出てきた。17年前のメモを見ながらこれを書いている。

取材では、当時清水店の名物になっていた「昔豆腐」を作り上げるのに良質の大豆を求めて滋賀県の比良山の麓の畑にたどり着いたことや、吊した粗塩から滴る昔ながらのにがりを作るための専用の部屋を地下に設けていることなどを、苦労話も交えながら楽しそうに話してくださった。
大学の体育会でヨットを始め、その後35歳で日本代表になるなど輝かしい成績を収めたスポーツマンでもあり、そんな余談もフレンドリーに聞かせてもらった。
こう書くと、苦労なく老舗の15代目を継いだように思うかもしれないが、19歳の時に先代の父親を亡くされている。当時大学生だった石井さんは、店を継ぐためにヨット部を辞めてすぐに店を継いだ方がいいか、責任者である番頭さんに相談したそうだ。大学でヨットを始めるに当たっては、父親から「しんどい練習に音を上げて絶対に辞めないこと」と約束を交わしていたことを知る番頭さんは、「店は自分たちが守るから続けなさい」と伝えたという。その言葉で石井さんは「絶対にヨットで一番になってやる」と奮起する。そして、大学卒業後もヨット競技を続け、36歳でついに日本一に。世界大会では3位に入賞する成績を収め、37歳で家業に専念することになる。

奥丹15代店主・石井康家さん。旅先にて。(写真提供:畑山裕子)


究極の豆腐作りが資料館のきっかけ

京都府立植物園で「世界の豆展」が開催された時の資料を見ると、奥丹清水店にあった豆資料館は、1998年に開館したとある。奥丹15代店主だった石井康家さんの「より美味しい豆腐を食べていただきたいという思いから、全国各地から大豆を取り寄せて実験しているうちに、大豆以外にもたくさんの豆が集まりだした」というのが、コレクションの発端となったそうだ。

私設の資料館であったが、「世界の豆展」に寄せて、渡辺弘之・京都大学名誉教授が、「収蔵されていたマメ科植物の種子標本は、直接現地まで採集に行かれ、インドネシア・ボゴール植物園、チボダス植物園、マレーシアのペナン植物園などにおいて同定を受けているもので、種類数の多いこと、貴重な種が含まれていることなど、学術的にはきわめて価値の高い貴重なものである」とお墨付きを与えている。

当時の豆資料館の様子。地下の部屋に数千点のコレクションが並んでいた。※現在は閉館。(写真提供:田村和成)

奥丹の豆資料館から府立植物園に寄贈された豆の標本は212種に上る。寄贈に至らなかった収蔵品も多く、豆を使った民具やアクセサリー類も含めると、数千点が収蔵されていたと記している記事もある。

植物園への寄贈リストの採取者の欄を見ると、最も多くの品種を採取し、ボゴール植物園など海外での採取のほとんどをおこなっているのが、石井さんの友人であり、豆資料館の標本収集の協力者であり、コレクションの植物園への寄贈にも尽力した畑山裕子(はたやまひろこ)さんだ。現在は、2023年に創立100周年を迎えた京都園芸倶楽部の会長も務めていて、マメ科植物の魅力について講演もするマメ科研究者の横顔ももっておられる。今回、奥丹の豆資料館を知る人物として話を聞くことが叶った。

豆に魅せられた収集の立役者

畑山さんによれば、石井さんと知り合ったのは、ちょうど石井さんが豆資料館をつくろうとしていた頃。「一度見に来て」と誘われて行くと、「アフリカでは不倫裁判に毒豆が使われていたことがある。無実の人は迷いなくパッと呑むから胃が刺激されて吐き出してしまうけど、やましい人は怖々ゆっくり呑むでしょ。そうすると毒が回って死んでしまう」など、多種多様な豆についての知識を石井さんがおもしろおかしく説明するのに加え、マメ科植物の色鮮やかできれいな花に魅了されたという。当時、所用で海外に出かけることが多かった畑山さんは、「標本の充実にお役に立てそう」と、すぐに協力を約束し、次第に豆の世界にのめり込んでいったのだとか。

「マメ科の植物って毒をもっていることが多いけど、薬にもなる。花の形がそれぞれ違って、どれも魅力的。木工の材にもなるし、食用にもなる。知れば知るほど楽しい世界」と語る畑山さんの収集エピソードも少々ぶっ飛んでいる。あるときは海外でバスの車窓からマメ科の木が見えるやいなや「バス停めて!」と叫び写真を撮ったり、またあるときは木に豆果(サヤ)を見つけると靴を脱ぎ捨てて木によじ登ったりと、その情熱には一目置かざるをえない。この一途な情熱が、豆資料館のコレクションの充実に一役買ったことは想像に難くない。もちろん、こういったエピソードをサービス精神たっぷりに話す畑山さんの目的は、まだ見ぬマメ科植物との出会いであり、海外の植物園に学芸員を雇って何度も熱心に訪ねられたことも併せて書いておかねばならない。

畑山さんが旅先で見つけた、世界で一番大きな豆「モダマ」。(写真提供:畑山裕子)

目に見えるものの下にあるもの

このようにして増えていったコレクションは、当初の豆資料館の部屋では収まりきらなくなり、地下室は一度増築されたそうだ。
なぜ地下室だったのか? この疑問の答えは畑山さんが持ち合わせておられた。奥丹の清水店は東山の美観地区にあり、高い建物が建てられない。ましてや、古い邸宅を店に利用していたので、空間確保には地下を掘るしかなかった。それゆえ豆腐の工房や資料館は、外観からはまったく予想できない地下に増築したスペースにあったとのこと。これで核シェルターのような空間の謎は解けた。

ここからは書くべきか迷ったのだが、豆資料館の核心部分でもあると思うので書いてしまおう。
畑山さんの紹介の際に「石井さんの友人」でもあると書いたが、石井さんと畑山さんはともに花街のお茶屋のコミュニティの一員で、月に1~2回、仲間と集まる機会をもたれていたのだとか。節分のお化けでは仮装を楽しみ、クリスマスには花街の街角で聖歌隊に扮して賛美歌を歌ったこともあるという。「石井さんと知り合って、亡くなられるまでの10年ぐらいは、本当に楽しくて充実していました。その時の仲間はみんな石井さんのおかげで楽しく過ごせたと言います。石井さんのおかげで豆に魅せられて、いま私が京都園芸倶楽部の会長をやってるって言ったら石井さんは驚かはるやろうけど、喜んでくれはるのと違うかな」。

今回、植物園に保存されている豆資料館の収蔵品を開封するにあたり、畑山さんに立ち会っていただいたが、箱を開けるたびに「あっ、これはね……」と収集した時のエピソードや、豆についての雑学が飛び出した。それはまるでタイムカプセルを開封した途端に次々と思い出が蘇ってきているかのようだった。 

植物園に寄贈された奥丹の豆資料館コレクションは、渡辺弘之・京都大学名誉教授が学術的な価値についてお墨付きを与えておられるが、実は学術目的ではなく究極の豆腐を作るという目的のもとで集まったという点にも価値があるのではないかと思えてきた。市井のコミュニティが、老舗のご主人の夢に賛同し、収集を手伝った。集まった豆の学術的な価値は副産物のようにも思える。学術を目的としないところから生まれた学術とでも言えばいいだろうか。とても京都らしいと思う。コレクションに再び陽が当たる機会がくるのか分からないが、その日を願って裏側にある物語を書き残しておく。

コレクションから見つけた、世界の豆

モダマ:世界で一番大きな豆。日本では印籠の根付や火縄銃の口薬入れなどに利用され、奄美大島に島津藩がモダマの使用を取り締まる「モダマ役人」を置いていたという話も。
ブラックビーン(ジャックと豆の木):童話「ジャックと豆の木」のモデルになったといわれる木になる豆。木は樹高30~40mもあるそう。
トウアズキ:少量を傷につけただけで死に至る毒性の強い豆。台湾では、葉と茎はお茶として飲用される。毒性は加熱で消えると考えられ、ミルクに実を入れて沸騰させたものは活力剤になるといわれる。
ゾウノミミ:ユニークな形からその名で呼ばれる豆。
テトラプレア:ギリシャ語でテトラは「4」の意味。4つの面がある豆果の形からその名がついたそう。
アメリカネム(この木なんの木):傘状の樹冠で大きいものは、幅40mにも達するアメリカネムの木。「この木なんの木」の歌のモデルにもなった木で、豆はコーヒーの代用に使われた歴史もあるそう。
オオイナゴマメ:種子を包むパルプが臭いことから「stinking toe tree(臭いつま先の木)」の別名をもつ。
ガウクリア:女性ホルモンに似た作用をもつ成分が含まれている豆。学術論文に「美乳効果」があると発表されたことも。
ナンバンアカアズキ:アズキの原種。古くは分銅やネックレスなどの装飾品、すごろくのような遊び道具にも使われたそう。中国では「相思樹」と呼ばれ、相思相愛のシンボルといわれる。
ネジレフサマメ:ニンニクのような香りで、東南アジアでは生食もしくは漬物として食べるらしい。石井氏が強壮剤と聞き食すもニンニク嫌いでダメだったとか。
インドシタン:樹木は高級南洋材で家具の材として重用されるほか、楽器や車輪材にも使用される。豆果は羽根のような構造をもち、投げると円盤のように飛ぶらしい。
ベビーマラカス:乾燥させると、サヤの中で豆が外れてシャカシャカとマラカスのような音が鳴る。種子はハート型。
タイヘイヨウクルミ:種子は豆科最大。南太平洋では食用なのだそうで、煮ると栗のような風味があり栄養価も高いそう。日本では南大東島のみに自生する。
サラカ・インディカ(ムユウジュ):仏教三大聖木のひとつで、仏陀がこの木の下で産まれたとされる。樹皮はインドで婦人病の治療に用いられるそう。
ナタマメ:若サヤは福神漬けにしたり、ナタマメ茶として飲用もされる。種子は薬用として用いられ、神経や情緒を安定させるほか、血行促進、強壮効果もあるそう。
インガ(アイスクリームビーン):種子は、ほんのり甘い白いパルプに包まれている。このパルプがアイスクリームのような味がすることから「アイスクリームビーン」の別名をもつ。
カエサルピニア(ハスノミカズラ):トゲトゲの形状は、動物に食べられないようにするため。種は固く、ビンゴゲームの玉に使われることも。


企画編集:合同会社バンクトゥ(光川貴浩、早志祐美)/取材協力:京都府立植物園、畑山裕子、総本家ゆどうふ 奥丹清水/写真:原祥子