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いいなアメリカ ジョンとポールが歌うランディ・ニューマン

政治学

最終回

いいなアメリカ ジョンとポールが歌うランディ・ニューマン

傲慢、嫌なやつ? 分からんな
ま完璧じゃないが 主はご存知だ
のにどうなん 古い友達までみんな
じゃでっかいのを一発 さあお見舞いだ

金を与えた ありがたいはずだ
がどうゆうこった 憎まれるなんて
敬わないか んじゃあサプライズだ
どでっかいのを一発 こっぱみじんだ

アジアは満員 ヨーロッパは古い
アフリカは暑そう カナダは寒そう
南アメリカ 名を騙るか
じゃでっかいのを一発 言いな何か文句あれば

例外はオーストラリア 傷つける訳にはカンガルー
ここはみんなアメリカンアミューズメントパークに
サーフィンも忘れず

ブーム乗るロンドン 進むパリ
「余裕をお前に」って言うわしに
で全てのシティ 全世界中に
言うなれば もうひとつのアメリカンタウン
おおなんてピースフル 素晴らしい
んで誰もがフリー
君にジャパニーズキモノ
わしはイタリアンシューズがいい・・・

とにかく嫌われる
じゃでっかいのを一発な
でっかいのを一発な

──また会いましょう──

 第三次世界大戦が近づいているのであろうか?現在と比べ、のほほんと平和そうだった四半世紀も昔、まだ世にインターネットがそれほど普及していない頃、私は、当時大変人気があった、某ゲーム機のホームページの制作チームに加わる事となった。月更新のトップ記事に、ある月、新旧様々なゲームに登場するいけてないキャラクターを集め紹介するという特集企画が「ダメキャラ・フィーバー」というタイトルで持ち上がったとき、私の頭にとあるイメージが浮かんだ。それは、さらにもっと昔に、友人宅で見た、給水塔にスマイルマークを描いた写真であった。給水塔の形は核爆発によるキノコ雲に似ていた。グラフィック担当の私は、実際のキノコ雲の写真を探し、キノコ雲の上にスマイルマークの笑顔を描き、タイトルと共に画面いっぱいにあしらった。苦笑混じりではあったが、チームのスタッフにも笑顔でもって受け入れられ、私のキノコ雲は、特集を大いに盛り上げたのであった。しかし、公開翌日にホームページを開くと、ただタイトルだけが書かれた真っ黒い画面に変わっていたのである。読者の方から、大変厳しいお叱りを受け、たちまち私の作ったキノコ雲のイメージはネットの世界から抹消されてしまったのであった。

見つけた。デッド・ケネディーズというパンク・バンドの裏ジャケットの写真であった。

 私のキノコ雲のインスピレーションには、もう一つネタがあった。スタンリー・キューブリック監督の映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか(長い・・)』の人類滅亡を暗示させる、斬新なラストシーンである。衝撃的であると同時に、美しいとさえ言わしめる、モノクロの(映画自体、モノクロ映画である)核爆発による様々なキノコ雲の映像に合わせ、流れる歌は甘く、そして笑顔で『また会いましょう』。この強力なユーモアに対し、アメリカ空軍によって映画の冒頭に物々しく流される「映画はフィクションであり、現実には起こりえない」との趣旨の唐突すぎるテロップの挿入は、私のキノコ雲に対するお叱りと同様、中でも最大級のものであろう。

『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』ポスター。

 さて、ニューマンのこの歌『政治学』を皆様はどうお感じになられたであろうか。私は最初にこの歌の訳詞を読んだ時、本当に驚き、そして大いに笑った。ニューマン曰く、アメリカの外交政策を歌ったそうであるが・・・なんたる皮肉であろうか。しばしばサブタイトルとしても使われる「でっかいのを一発(drop the big one)」もやはり、私のキノコ雲と同様のお叱りをあらゆる方面から頂戴しているはずである。私は生まれも、現在暮らしているのも、原子爆弾「リトルボーイ」の投下されたヒロシマであり、お叱りに無論納得するところである。また核の問題に対し、注意深く見守り、声を上げ続けることは、大切なことであると思う。しかし、社会を挑発するようなユーモアが世の中にあってはならないとは思わない。むしろ、ユーモアからどんどん毒が抜かれる今の社会は、私には少し行き過ぎのように感じられる。過去に我々が大いに笑ったユーモアの多くは現在ではみんな禁止されてしまった。笑いによって昇華されるはずであった毒は一体どこへ向かうのであろうか。

第二次世界大戦時代の流行歌『また会いましょう』の混声コーラスは、全人類による笑顔のお別れのようである。

 当時、二十代半ばの私は、私のキノコ雲に寄せられたお叱りを読み、綴られたその怒りに縮み上がった。一方、ニューマンのライブはいつもこの曲で大爆笑である。私も笑って欲しかったのであるが、今では軽率であったと大いに反省している。私のいたずら描きとは似て非なるもの、ニューマンやキューブリックのユーモアは、体制に対する辛辣な批判精神を含んでいる。挑発的なユーモアでもって、社会に対し声を上げ続けることもまた、賞賛に値することと言えるのではなかろうか。しかし昨今の世界情勢は、このようなユーモアさえも脅かす所まで来てしまっているのかも知れない。もし、ニューマンやキューブリックのユーモアが、抹消されるような日が来るならば、直ぐにも人類「また会いましょう」であろう。

きっとまた会えるでしょう
いつかある晴れた日に
だから笑いを忘れずに
いつも絶えないそのほほ笑みを
青い空が黒い雲を払うまで(『また会いましょう』より)