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味の民藝 飛騨高山の飲み食いについて

しょっぱい思い出

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味の民藝 飛騨高山の飲み食いについて

著者:朝倉圭一イラスト:野上

「ねぇちょっと!このレンゲ、穴が空いてるんだけど!」

深夜のラーメン屋の店内に怒声が響いた。

豚骨高菜ラーメンに添えた「穴あきレンゲ」に、50代くらいの女性がキレたのだ。

読んでいてなんのことか意味がわからないと思うが、キレられた当事者の僕も意味がわからなかった。通称「穴あきレンゲ事件」が起こったのは15年くらい前のこと、当時、僕は地元に開業したばかりのラーメン屋で働いていた。

慌てて席に向かうと、若めの男性と5~60代の女性2人が座っている。話を聞くにどうやら穴あきレンゲの件はいいとして(いいんかい。)他に怒りポイントがあるようだ。話を汲み取ると、どうやら生まれて初めて豚骨ラーメンを食べたようで、そもそも豚骨ラーメンの味が気に入らないのだった。

豚骨クレーマーは「この店、地元の店じゃないでしょ!」と叫んでいる。当時の飛騨高山では「中華そば」を出すお店が主流だった。子供の頃「そばを食べに行こう」と誘われた時、それは中華そばのことを指しており「ラーメン」では通じないお年寄りも多かった。

 飛騨の中華そばの歴史は昭和13年、市内中心にある鍛冶橋のたもとで、夜の街へ出かける人向けに出された屋台がその始まりだった。

一般的にラーメンは、タレとスープを分けて仕込む。醤油も塩も味噌もタレを変えるだけでスープは一つだ。しかし、飛騨の中華そばは、寸胴一つでタレとスープを同時に煮込む。これは、最初の屋台を出した「まさごそば」の大将が、東京で習った作り方で、寒冷な高山の夜に熱々のラーメンを素早く提供するために考えた工夫だったと言われている。

スープとタレを同時に仕込む為、味付けは醤油一択。調味料を加えたスープを煮込み続けるので暇な日は味が濃くなる。僕が子供の頃は今よりずっとしょっぱくて、だいたいどの店もスープを割るためのお湯がポットに入って置かれていた。飛騨の食事は総じてしょっぱいが、そこには山々に囲まれた寒冷地ならではの事情があった。

海のない飛騨において塩は遠くから運ばれてくる交易品だった。塩は鰤と共に、山の向こうの越の国からその名も「ぶり街道」を通ってやってきた。塩漬けの魚類には塩分摂取の目的が含まれおり、塩漬けではない生魚は「ぶえん」(無塩)と呼ばれ、白米同様、滅多に食べられない特別な食材だった。

いまでも自家製と思しき塩辛い漬物に出会うと、無性に懐かしい思いに駆られる。その辛さ(からさ)に、厳しい山国を生き抜いてきた人々の切実な辛さ(つらさ)を、ほのかに感じるからだ。

 事件から数年後、僕は成り行きで件のラーメン屋の店長を任されていた。「危機対応能力に優れている」というのが専任理由だった。しかし、しばらくの後、親会社の経営不振でお店は事業売却され、僕はあっけなくフリーターになった。大きな危機の前には無力だった。

あの日キレられた豚骨ラーメンもいまではすっかり飛騨に馴染んでいる。いまではつけ麺もまぜ麺も二郎系だって食べられる。それは特別で幸せなことだ。15年前は、穴あきレンゲでキレられるラーメン不毛地帯だったのだから。

僕の働いていた「藤一番 飛騨古川店」は、今も別のオーナーが元気に営業を続けている。オーナーは僕のことを昔の店長として認識してくれていて、たまに「今日の味どうでした?」と声をかけてくれる。はっきり言うが、今の方が断然美味しい。

街角で、しょっぱい中華そばに出会うことも無くなった。観光地・飛騨高山は今日も派手に賑わっている。もうスープを辛くなるまで煮込んでしまうお店もないのだろう、良いことなんだろうけれど、時々ほんの少し寂しい気持ちになる。

 数年前、友人とたまたま入ったトンカツ屋で、僕は件の豚骨クレーマーと再会を果たした。やはり僕に危機回避能力はないようだ。入店した時点で彼らはまたもキレていた。前回と大きく異なっていたのは、トンカツ屋の大将がそれを上回る勢いでキレていたことだ。この時、僕は生まれて初めて「おい!塩もってこい!塩っ!!!!」をリアルで聞いた。

粗塩の袋を抱えて飛び出した大将の帰りを待ちながら、僕は友人に、そういえば昔こんなことがあったんですよ…と、しょっぱい思い出を話した。