誠光社 SEIKOSHA

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コテージのビッグ・ウェンズデー

コテージのビッグ・ウェンズデー

二年近く毎月開催してきたレギュラーイベント「コテージのビッグ・ウェンズデー」を一冊の書籍にまとめました。最多出演のレギュラーゲスト、ミズモトアキラさんと共演した三回にしぼり、大幅に加筆修正、コラムやフライヤーなどのアーカイブを追加。デザインは相方のミズモトアキラさん、イラストは青木みらのさんによるもの。

LP、CD、古本に古雑誌、時にVHSテープから街のセンパイたちの証言まで。ウン十年間、指は真っ黒、足を棒にして集めたオールドメディアを駆使し、ひとつのテーマを掘り下げる「体験型雑誌」を活字でお楽しみください。

尚、こちらの書籍の取り扱い店さまを募集しております。販売ご希望の方はメールにてお問い合わせくださいませ。

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勉強とは人に言われてすることではなく、対象は何であれとことん惚れ込むということだと植草甚一の文章から教わった。仕事と遊びは決して区分けしてはならないことを和田誠の著作『銀座界隈ドキドキの日々』を読んで実感し、作品とは自己表現ではなく、環境や影響をそのまま取り入れて提示する一種の共同作業であることを赤塚不二夫の創作姿勢から学んだ。

数多くの海外文学作家たちの名前や、アメリカのポップカルチャーに関するトリヴィアルな情報を村上春樹の小説で知り、ユーモアのある権力との戦い方、またはからかい方を赤瀬川原平の足取りに見出した。わかりやすく反抗的なユニフォームをまとい、スリー・コードをかきならすパンクロックがステレオタイプとして再生産される中、ノーブルなファッションに身を包み、背伸びして難解なコードを爪弾く方がよほどパンクだと、ネオアコと呼ばれる音楽によって感化され、高野文子の『るきさん』に頑ななまでの同時代批判を読み取り背筋を正された。ウェス・アンダーソン監督作品の、フィクションとリアリティを共存させる技法に心酔し、デヴィッド・リンチの瞑想脚本術を「これでいいのだ」と受け入れる。バッドテイストとは「もののあはれ」であり、悪趣味のメガネをかけることで醜いものにも趣を感じることだと知り、反対に、メガネを外し汚いものを見ないことで美しく居心地の良い世界を作り上げるメソッドを「暮らし系」と呼ばれる美意識の中に読み取った。アンディ・ウォーホルの孤独な晩年に我が身を案じ、小津さんの映画のユーモアや政治、哲学に関する野暮ったくないスマートな語り口に唸った。意味のある言葉と意味のない言葉に貴賎はないということをタモリの芸風で実感し、そしてこのまえがきのスタイルそのものを伊丹十三の文章から借りている。このように数多くの先人たちからさまざまなことを教わったが、私自身は空っぽの容れ物にすぎない。その容れ物に、彼らの名前を教え、中身を注いでくれたのが雑誌という注ぎ口の広い器だった。

フランソワ・トリュフォー監督の映画版『華氏451』のラストシーンは感動的だ。文字を読むことを禁じられ、焚書が行われる近未来でレジスタンスたちがとった抵抗手段は、彼ら自身がそれぞれ一冊の書物になることだった。二〇一四年二月から翌年十月にかけ、京都で二十回、松山で三回行われた「ビッグ・ウェンズデー」というイベントのコンセプトは、出演者自身が一冊の雑誌となり、毎月特集号を会場に届ける「体験型雑誌」というものだ。個人が持つ本や音楽ソフト、映像コレクションや町歩きで見つけた風景に、当事者たちから聞いた話を編集し、ワンテーマを多角的な切り口で紹介する。雑誌や本というピッチャーから容れ物へと知識や情報が注がれ、それをまた別の容れ物に注ぎ込む。このようにして知的好奇心を持った人々の間で熱量の交換がなされる限り、どのような形になっても雑誌というものは不滅である。本書を、雑誌というオールドメディアに、そして自らが一冊の雑誌となり、人前で話したり、誰かに向けてものを書いたりするすべての人々に捧げる。

(『コテージのビッグ・ウェンズデー』「まえがき」より)

 

  • コテージのビッグ・ウェンズデー
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